夏にスマホを足の親指に落とし、爪が内出血し、黒い血豆が這うように前に進んで爪からパチンと旅立ってゆき、引っ越すことにしました。
部屋に物がたくさんあふれているのが苦手です。
ごちゃごちゃと装飾するのも苦手。というか何をどうやって飾ったらいいのか全然分かりません。そういうことで自分が幸せな気分になるのが想像できない。できれば家具も最小限で済ませたい。流行りのミニマリストみたいですか?あんな気持ち悪い感じではないです、一応部屋もカッコつけたい気持ちはあるはずなんですが…他人から見れば同じようなものかもしれない。
物はできるだけ目につかないようにどこかにしまいたい。しまえないほどのたくさんの物を部屋に置きたくない。すぐに捨てる。
愛と愛玩は、似て非なるものではありません。
愛と愛玩は、似ても似つかないものです。
愛は、愛玩ではない。それを理解して初めて、愛玩を自らの糧とすることができます。
この世には、「今までどおり」「元通り」にしようとする、とんでもなく強い力が働いていると、何度も申し上げました。
新しく何かを始めようとすると、それが良いものか悪いものかに関わらず、必ず恐ろしく強い抵抗にあいます。
これは既得権益を持ったおっさんらを指しているのではありません。みなさんも、そうです。自分の身の回りの環境を新しく変えられることに対しては、恐ろしく抵抗するでしょう。元通りが良いのだと。昔のほうが良かったのだと。
お前はバカだから気づいてないのでアタマのいいやり方を教えてやるぜ!という親切には折に触れて出会います。僕は大人なので、基本的にはありがとうございますとだけ言って聞き流し、それ以上踏み込んでこないことを暗に要求します。
自分が知っていることを、それを知らない人に教えてあげる、という行為自体は、本人が思うほど尊いものではない。なかなか気付きづらいことではあります。特に、それが自分の親切心からくるものだと思っている人にとっては。
たまたま助手席に乗せてもらった車でFMラジオが流れていまして、ああ、ラジオ聞くの何年ぶりかなと少し懐かしい思いにもなりながら耳を傾けていたんですが、ある曲が流れてきまして、僕は、「これ○○(バンド名)の劣化コピーだな、全てが似てて全てがつまらない。でもしょうがないか、人気だし真似しちゃうよね」とか思っていました。すみません、僕のような者が音楽を評するなんて死刑レベルの罪悪だとは思うんですが、ついつい昔の癖で。で、曲紹介を聞いたら、その○○というバンドの新曲だった、というのがこのエピソードのオチなんですけど。
この体験を最近2回しまして。違うバンドで。しかもどっちも知らないわけではないバンドで。思ったわけです。
年をとると、才能は減っていくんだと。
今、日本の子供たちに目指してほしい職業は、YouTuberなんかではなくて、「Twitterの企業アカウントの中の人」だと思うんですよね。あんなに素晴らしい仕事はなかなかありません。職業に貴賎なしという言葉は嘘ですね、Twitterの企業アカウントの中の人こそ、現代の日本における聖職と呼ぶにふさわしい仕事だと思います。
よく、無感情であるとか、無感動であるとか、無表情であるとか、何考えてるのか分からないとか、そういう新人類(笑)的なご指摘をいまだに受けがちです。いつもむっつりつまらなそうな顔をしていると。
それはですね、何を考えてるのか分からないのではなくて、本当につまらないと思ってるんです。
僕は感情が態度にあからさまに出ます。不機嫌そうに見えるのは、不機嫌そうに見えるのではなく、本当に不機嫌なんです。面白くないのに笑ったりしないんです。悲しくもないのに泣いたりしないんです。何考えてるのか分からないように見えるときは、あなたとは全く関係のない別のことを考えてるんです。
こんなに分かりやすい人間が他にありますか。いばることじゃないですね。
同窓会的なのがあったんです。大学の。
お前みたいなやつに同窓会のお知らせなんか届くわけないだろ! いやほんとその通りですよね。
何度かお話をしたことがありますとおり、僕はいわゆる前時代の遺物的な大学生活を送っておりましてつまり、ほとんど大学に行っていません。誰かにノートをコピーさせてもらって一晩暗記してテストだけ受けに行くっていうやつでした。
つまり学部には顔見知りも友達もいないわけです。…言っててさすがに寂しくなりました。19歳の時点でこんなんかよ。
そんなことはどうでもよく、僕の学生時代は主にバイトかサークルでサッカーかのどちらかで、集まってどうこうするというのはサークルの同期しかおりません。
言葉が正しいとか正しくないとか良いとか悪いとか、一介の人間が軽々しく口にしてはいけないんですよ。例えばの話ですけどね。
なぜ自分がそんなことをジャッジする権利を有していると思えるのでしょうか。正しい送り仮名も、正しい漢字も、正しい慣用句も、正しい「てにをは」も、存在しない。僕たちはただひたすらに、使うだけなんです。言葉を。
言葉は常に動き、流れ、もがいたり暴れたり排泄したり枝葉を枯らしたりして、ひとつ所にとどまることはありません。「これが正しい言葉でおます!」と指差しても、言葉はもうそこにはない。どんどん先のほうへと流れていきます。僕たちはただその流れに身を任せるだけです。