たまたま助手席に乗せてもらった車でFMラジオが流れていまして、ああ、ラジオ聞くの何年ぶりかなと少し懐かしい思いにもなりながら耳を傾けていたんですが、ある曲が流れてきまして、僕は、「これ○○(バンド名)の劣化コピーだな、全てが似てて全てがつまらない。でもしょうがないか、人気だし真似しちゃうよね」とか思っていました。すみません、僕のような者が音楽を評するなんて死刑レベルの罪悪だとは思うんですが、ついつい昔の癖で。で、曲紹介を聞いたら、その○○というバンドの新曲だった、というのがこのエピソードのオチなんですけど。

 

この体験を最近2回しまして。違うバンドで。しかもどっちも知らないわけではないバンドで。思ったわけです。

年をとると、才能は減っていくんだと。




 

天才の定義というものが個人的に一つありまして、やりたいことが死ぬまでなくならないこと、というのがそれなんですが、その資質を持つ人は、非常に稀です。ほとんどの人は、若い時には才能と活力に満ち溢れるが、やがてやりたいことがなくなり、何をしたらいいのか分からなくなり、やる気がなくなります。

アーティスト気質として、常に新しく革新的で、以前の自分より良い物を作って越えていきたいと願う気持ちはどこかにある。だからどうにかこうにか、以前のものとは違うものを作ろうとします。が、なかなかそうは上手くいかない。

顔を上げれば、過去の鎖につながれたファンたちが、「昔みたいな曲作れ、昔みたいな曲作れ」と、魔女裁判のような趣きで周りを取り囲んでくるわけですよね。

 

生きていくためにも、一度味わって捨てられないチヤホヤの記憶のためにも、年老いた彼らは、「自らの劣化コピー」を始めてしまいます。昔の自分に似た、つまらない何かを作る。

 

いや、そういうものなんですよ。誰だって。誰もがピカソなわけではありません。才能で金を稼ぐほとんどの人は、必ずその才能を枯渇させます。「昔に比べてつまらなくなった」というのは、当たり前なんです。

 

「劣化」というのは主にアイドルやタレントの女の子に対してネットの人たちがよく使う言葉でもあります。

10代から20代にかけての女性は、まだ成長の途上です。身体的に未完成であると言っても過言ではありません。

骨格も肉付きも、毎日どんどん変わります。顔の骨も毎日のように動きます。

その、動いている真っ只中の人間のある一瞬を切り取って、完成品であると言って消費しているんですから、いい気なもんですよね。

 

僕の世代の関西人にとって、ダウンタウンは唯一神のような存在です。言いすぎですか。少なくとも僕にとってはそうです。ですが僕は、ダウンタウンでさえ年を取って、つまらなくなることは当然であると思っています。そういうものなんです。

しかしここでもまた田舎の魔女裁判みたいなやつらが、「昔みたいなコントやれ、昔みたいなトークやれ」と鋤や鍬を持って取り囲んできます。

 

誰も昔みたいになんてできないんです。やりたくてもできないんです。そしてそれが当たり前なんです。なのに過去の鎖につながれた他人や、そして自分自身が、ありもしないものにすがるんです。

 

 

“昨日、あるいは数多くの昨日からなる過去すなわち思考が、『私が前に感じたような幸福な状態にいつまでもいたい』と言うわけである。あなたは死んだ過去を現在によみがえらせ、それが明日なくなるのではないかと恐れているのである。こうして連続性の鎖が作りあげられる。” (クリシュナムルティ)





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このエントリーは、

ルマガ 山本山本佳宏『二十一世紀の未読』

本日配信分の一部を抜粋したものです。

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