言葉が正しいとか正しくないとか良いとか悪いとか、一介の人間が軽々しく口にしてはいけないんですよ。例えばの話ですけどね。

なぜ自分がそんなことをジャッジする権利を有していると思えるのでしょうか。正しい送り仮名も、正しい漢字も、正しい慣用句も、正しい「てにをは」も、存在しない。僕たちはただひたすらに、使うだけなんです。言葉を。

言葉は常に動き、流れ、もがいたり暴れたり排泄したり枝葉を枯らしたりして、ひとつ所にとどまることはありません。「これが正しい言葉でおます!」と指差しても、言葉はもうそこにはない。どんどん先のほうへと流れていきます。僕たちはただその流れに身を任せるだけです。



 

これはいわゆる言葉狩りに対して何事かを言おうとしているわけでは全くありません。

言葉は自由です。お釈迦様の手のひらの上のごとく、僕たちを自由に転がせてくれます。筋斗雲でヘトヘトになるまで遠くに飛んでも、言葉の外にこぼれ出てしまうことはありません。正しい使い方はない。間違った使い方もない。ただ言葉がある。

 

これから言葉を覚え、もう一つの目を開かんとする子供たちに言葉を教える立場の人は、それは教員だろうと親だろうと誰でもそうですが、上述のことを理解した上で、国語やら文法やらを教えるべきでしょう。ルールを教えるななどという極論はもちろん言いません。

正しいから教えているわけではなく、お釈迦様の手のひらの上に乗るための、入口の場所を教えるにすぎない。何かを強制しているのだとすれば、それは愚かな自分の愚かな好みを愚かにも押し付けているにすぎない。

「今後の人生において社会から弾きだされないようにしたいと、キミがいつか決めた時に困らないよう、約束事を教えるが、それにあたって、正しいとか間違っているとか○とか×とか言って申し訳ない。本当はそんなものはないんだ」と、心の中で子供に謝罪してください。

 

なぜ自由であるはずの言葉の、なぜ絶え間なく流れ続ける言葉を、ルールで縛らなければならないのかについても合わせて、子供たちに是非教えてあげてほしいと思います。

 

正しい言葉は、もしかしたらあるのかもしれない。しかしそれは、人間には決して見つけられないものです。正義と同じ。

 

自分の趣味趣向を、正義や優劣とすり替えてはいけません。正義だから正義なんだと押し付けられたものを、正義だから正義なんだと妄信してはいけないし、させてはいけません。言葉は、全ての人間の遥か上空に、そしてどこまでも続く地面にある。自由に空気を吸い、自由に歩いていいのです。

言葉は道具です。僕たち人間がかつて生み出した、「道具」です。言葉が人間を生み出したのではありません。自らを、より自由にするための道具として作ったのが、言葉です。自らを縛るような道具は、道具ではない。捨てておしまいなさい。

 



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このエントリーは、

ルマガ 山本山本佳宏『二十一世紀の未読』

本日配信分の一部を抜粋したものです。

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