お前はバカだから気づいてないのでアタマのいいやり方を教えてやるぜ!という親切には折に触れて出会います。僕は大人なので、基本的にはありがとうございますとだけ言って聞き流し、それ以上踏み込んでこないことを暗に要求します。

自分が知っていることを、それを知らない人に教えてあげる、という行為自体は、本人が思うほど尊いものではない。なかなか気付きづらいことではあります。特に、それが自分の親切心からくるものだと思っている人にとっては。



 

知っているか、知らないか、ということは全く大切なことではありません。どっちでもいいことです。これはメルマガでも繰り返し申し上げてきたことです。だからおそらく、わりと重要なことだと思います。書いている本人は重要性にあまり気づいてないですけど。

知っているから偉いわけではありませんし、知らないから偉いわけでもありません。どちらも等しく、どっちでもいい。

唯一大切なことは、知りたいのか、知りたくないのか。自分は何をどれほどに、どのように知りたいのか。それだけです。

 

この人が知らないことを私は知っている。だからそれを教えてあげればこの人は喜び、良い思いをできるに違いない。

その考え方は一見親切であり、奉仕であり、無私であると思われがちです。

 

知識の移動、知識の継承の中に、本当の喜びがあると僕は思いません。

自分自身の中に持つものに、愛があるとは思いません。

それは自分の持ち物であって、愛は、自分の所有物ではありません。生まれた瞬間から相手の所有物なのです。

 

愛を自分の持ち物であるとお思いの方は、大変多い。それが連綿と悲劇をループさせてきましたし、これからもその輪を抜け出すことがありません。

 

 

コミュニティは裂けて互いに断絶しさらに細かく細かく分裂していきます。

これは、自分が知っていて相手が知らないこと、自分が知らず相手が知っていること、の数が飛躍的に増えているということです。

コミュニティが柔軟につながってゆるやかな一つの集団を形成していたころには、特に苦もなく、あるいは意識することすらなく、知識の移動や継承が行われていました。

今は「知識の差」を攻撃、あるいは排除をするための道具として使用します。細分化、専門化された知識たちが、孤立するための手段、相手を屈服させ優劣をつけるための手段として利用されている。

 

これは例えば、教養のある人とない人の戦いとかいう、単純な上下格差の話ではありません。

誰しも自分が無知であることを武器に、弱い立場の人間の境遇を知らないという事実を武器に、誰かを攻撃したことがあるはずです。






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このエントリーは、

ルマガ 山本山本佳宏『二十一世紀の未読』

本日配信分の一部を抜粋したものです。

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