夏にスマホを足の親指に落とし、爪が内出血し、黒い血豆が這うように前に進んで爪からパチンと旅立ってゆき、引っ越すことにしました。
玄関を開けるといかにも頼れそうな感じの屈強なおっさん二人が爽やかな笑顔で挨拶してその後ろにもう一人、薄暗い上目遣いでこちらを見ているひょろ長い男が立っていました。どうやらこのバイト君と三人での作業のようです。
バイト君の袖には「ジョン」と書かれた名札がついていて確かにジョン。役者根性を見せて限界まで痩せたときのクリスチャンベールのような青白い顔つきのジョンは、日本語がまだ不自由なのか、それともバイトが辛いのか、伏し目がちに黙ったまま、おっさん二人に続いて段ボールを運び出していきます。
僕はクイックルワイパーをかすかに動かしつつ何もなくなっていく部屋を眺めているだけでしたが、廊下の先、開け放した玄関にジョンが突っ立っているのに気づきました。何やってんの。
少し猫背ぎみのジョンは僕をじっとりと見つめながら右手をポケットに突っ込み、激しく動かしていました。
お。
次の瞬間にはもう、彼は段ボールを持って消えていました。何今の。まあ、まあ、まああれよ。ちんこ痒かったんでしょ。たぶん。ジョン。
屈強なおっさんと一緒に照明を外します。IKEAで適当に買い、まあいいの見つけてさっさと換えたらええわのありがちなパターンを乗り越えてIKEAくんは、まあ引っ越し落ち着いたら買い換えたらええわと新居に運ばれて行きます。
おっさんが下りる脚立を押さえながら何とはなしに玄関を見ました。残念なことにジョンは仁王立ちしてこちらを見つめ再びポケットの中からちんちんいじっています、もうこれは断言、ジョンはちんこをいじっている。
かつて阪急梅田の公衆便所で僕の顔をニコニコと見つめながらとんでもない長さのちんこをいじっていた隣の白人がフラッシュバックします。なぜ、なぜ白人の男は私を見ながらちんこをいじるのか。
僕の視線を感じたとたんジョンはポケットから素早く手を出し、また陰鬱な顔で段ボールを運び始めます。まあよい。百歩譲ってちんこいじるのは許そう、100年くらい前までの中国ならちんこ切り取られてますよジョン、しかし私は許そう、ともに遠い故郷に思いを馳せてやっても良い、しかしちんこいじった手で新居の壁とか家具とかPS4のコントローラとか触るのだけは勘弁してくれないか、ジョンよ。なあジョンよ。手を洗ってくれ。
明けましておめでとうございます。
かつてメルマガはWORDで書いていたんですがメルマガやめたのと同時にWORDも使わなくなりまして。ドカベンの弁当箱みたいな形のくそみたいな激重ノートPCを友人からカクヤスで購入した二十年前のようなヨチヨチした指さばきで新年のご挨拶をしております。ワードひさしぶり、ひさしぶりですねみなさん。
ジョン言いたいだけで書きたくもない話を書いてしまいました。ちんこって書くと女の人にすっごい無視されるから書きたくないんですけど。
正月休み最後の日曜日。広場で父親と小学校に入ったばかりくらいの小さな息子がキャッチボールをしていました。ニコリともしない父親は、けっこうな速さのボールを息子のグラブめがけて黙々と投げ込みます。寒空にグラブの土手に当たる鈍い音が何度も何度も響きます。痛みに耐えきれずこぼしたボールを、少年はけなげに拾い上げ父に投げ返します。何これ。刑事罰ですか?
寒さに耐えかねて駅前のしけたチェーンのうどん屋に駆け込みました。
しみったれた流れ作業でうどんを受け取り、かまぼこ板程度のほっそいほっそいカウンターテーブルにつく。耳からはBluetoothのイヤフォンがバッテリー切れを知らせる。隣にはぺろぺろのダウンを着た父娘がうどんをすすっている。眼前ギリギリに迫るきったない壁を無言で見つめる娘、娘も壁も見ずひたすらにどんぶりを見つめる父。いや何でもいいけどさ。平成最後の正月に何食べようとさ。このカウンターに子供座らせるのはやめときませんか父よ。泣きそうになるわ何か。ずっと壁見てるやん娘。わが国の親子像ってこんな感じですか?
明けましておめでとうございます。
やりたいことはあるのにやらないままでいるとやり方を忘れる。やり方を忘れたままでいると、やりたいことそのものを忘れてしまう。「あれ、俺が書きたいことってなんだったっけ」。書きたいこともない、書き方も知らない。何なんでしょうかこの無能は。欲求そのものが出口を失いぶすぶすと焦げつきを残しながら消滅してしまいます。
注意欠陥人間として柄にもなく今年の目標を掲げるとすれば、今年は集中していきたい。あまりにも散漫に、あまりにも鈍感に生きている気がする。それが老化のせいであったとしてもです。かつて立川談志師匠が言ったように、年をとっても面白いことを考えることはできる。しかしそこに至る集中力を尖らせること、これにめちゃくちゃ時間がかかる。
死ぬまで青春!と言ってるジジババの大半は、過去の記憶を今の自分の身体に必死になってなすりつけているに過ぎません。ご存知のように青春とは、うれしはずかし恋と喧嘩と部活と花火と全部雪のせいな思春期のことではない。青春とはものすごいスピードで走り去ろうとする化け物です。そのスピードに追い付ける者、同じスピードで走ることができる者だけが見ることのできる景色があります。青春は過去に置いて来てしまったキラキラした思い出ではありません。私たちが青春から振り落とされ、置き去りにされ、茫漠たる原野に棒立ちしているのです。ジョンのように。ジョンはそろそろ手洗ったか?
一度置き去りにされると二度と追い付くことはできない。一度やめてしまうと元に戻ることはできない。そうした残酷な結論に至る物事はこの世にかなりの頻度で登場します。ここで立ち尽くして人生を終えるか、今出せるスピードで少しでも走るか。この二択もかなりの頻度で登場します。
僕は青春時代やかつての自分を取り戻したいわけではありません。自分が若いのか老いているのかに興味はなく、自分の脳内から旅立っていくものにだけ興味があります。集中力が減衰していようとも、ただやるしかない。そんな感じ。
今年もよろしくお願いいたします。
部屋に物がたくさんあふれているのが苦手です。
ごちゃごちゃと装飾するのも苦手。というか何をどうやって飾ったらいいのか全然分かりません。そういうことで自分が幸せな気分になるのが想像できない。できれば家具も最小限で済ませたい。流行りのミニマリストみたいですか?あんな気持ち悪い感じではないです、一応部屋もカッコつけたい気持ちはあるはずなんですが…他人から見れば同じようなものかもしれない。
物はできるだけ目につかないようにどこかにしまいたい。しまえないほどのたくさんの物を部屋に置きたくない。すぐに捨てる。
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初めて観葉植物を買いました。
ふと思いついたら訳もなく乗り気になってしまって、めぼしい店をあれやこれやと、けっこうマメに見て回りました。
いくつ見ても、何かどれもちがう気がする。そりゃそうです。どんなのが欲しいのか、そもそも全く見当がついていない。
じゃあ買うなよ。
さんざん徘徊する中で、無理やりに欲しい観葉植物を思い描きます。じゃないと買えませんから。
葉っぱが尖ってるのは怖いからイヤ。
サボテンはとげがあるからイヤ。
小さい葉っぱは貧乏くさいからイヤ。
幹が黒いのは何か汚らしいからイヤ。
小さいのは置いても見栄えが変わらないからイヤ。
いやいやえんかお前は。
いやーだって良く分かんないし。
実物を色々見ても、枝の曲がりが気に入らないとか、何か葉っぱがシワシワな気がするとか、ネガティブなところにばっかり目が行きます。
例えば絵を飾る。飾る?絵を?何の?
自分の家に絵を飾るってせいぜい1枚か2枚じゃないですか。
僕にとって、人生で一番の絵画は、別に決まってないんですよ当然ながら。
わりと好き、みたいなのが過去に何十点かあったかもしれないが、それもその瞬間に忘れ去っていて、それを無理やり掘り起こすことができないこともないがもし、マチスを選んだとしたら、エッシャーを選んだとしたら、ドラクロワを選んだとしたら、たぶん僕は色んな理屈を後からこねて、その絵が特別に好きだと思い込もうとするはずです。そして僕はそれが嫌なんです。
めんどくさいやつ。
絵は飾れない。写真やアート作品も飾れない。飾るとしたら、「別に好きじゃないけどとりあえずの腰かけ的な感じで」みたいな言い訳を、それはそれでまたしてしまうはずで、それはまた輪をかけてめんどくさい。
絵が選べない。一番好きな絵を選ぶことができない。
一番好きなもの、一番好きな人を、たった一つだけ。二つとか三つとかじゃないですよ、たった一つだけ選ぶことができないというのは、不幸なことです。幸せの意味を全く知らない愚者の僕でさえ、それだけは明確に分かる。
みんな大好きで、誰か一人なんて選ぶことができない。
それを幸せと呼ぶことができれば、どんなにいいでしょう。
........
愛と愛玩は、似て非なるものではありません。
愛と愛玩は、似ても似つかないものです。
愛は、愛玩ではない。それを理解して初めて、愛玩を自らの糧とすることができます。
多くの人たちは、愛に、対等ではない関係を望んでいます。
結果としての不均衡ではなく、自ら望んで相手と自分に差をつける。
なぜか。不均衡は、多くの場合、安定するからです。
対等は面倒であり不快であり、自分にとってのメリットを感じないから。
対等であるということには、おそろしいほどの不安定さや脆さが含まれています。
まっすぐ立っていることさえ難しい。
一歩進むことさえままならない。
崩れてしまうのを腹筋と内転筋で必死にこらえる。膝をガクガクと揺らしながら前に足を出す。
それが愛の、ひとつの光景です。
それを醜い姿であると思うかもしれません。愛とはもっと美しいものなのではないのかと。
愛は美しいものです。間違いなく。
しかしそれは、自分の姿とは全く無関係に見ることのできる現象です。
姿見に映る自分の姿を眺めていては、あなたが愛の美しさを見ることは、永遠にありません。
愛とは、あなた自身の姿ではないのです。
この世には、「今までどおり」「元通り」にしようとする、とんでもなく強い力が働いていると、何度も申し上げました。
新しく何かを始めようとすると、それが良いものか悪いものかに関わらず、必ず恐ろしく強い抵抗にあいます。
これは既得権益を持ったおっさんらを指しているのではありません。みなさんも、そうです。自分の身の回りの環境を新しく変えられることに対しては、恐ろしく抵抗するでしょう。元通りが良いのだと。昔のほうが良かったのだと。
この事を申し上げたのは、2011年です。2017年、振り返っていかがですか。それはもう、見事なまでに、今まで通りの生活へと引きずり戻されているでしょう。あえて引きずり戻されたと言いますが。
怠惰な僕たちが最後にもらった機会を、僕たちはやっぱり無駄にし、何もなかったことにし、何も見なかったことにしました。
今までだってそうしてきて大丈夫だったのだから、今回も大丈夫なはずだ。
強い力はそう囁きます。そして僕たちはその甘い声に身をまかせ、この6年間、雑なセックスを繰り返したのみです。
それを僕自身は強く恥じています。
今っていうのは、今月でも今週でも今夜でも1時間後でも5分後でもありません。
今は、今です。
それは分かっているけど、明日起きたら頑張る。
明日なんて永遠に来ないんですよ。だから明日なんです。
「元通り」の生活を、繰り返すだけです。
今、というのは恐ろしいものです。
恐ろしいがゆえに、人は、ちょっと未来とか、ちょっと過去へと、目をそらして、それを今だということにしてしまう。
今は、今なんですよ。それを逃し続けて6年間、いや10年間、いや生まれてからずっと。
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お前はバカだから気づいてないのでアタマのいいやり方を教えてやるぜ!という親切には折に触れて出会います。僕は大人なので、基本的にはありがとうございますとだけ言って聞き流し、それ以上踏み込んでこないことを暗に要求します。
自分が知っていることを、それを知らない人に教えてあげる、という行為自体は、本人が思うほど尊いものではない。なかなか気付きづらいことではあります。特に、それが自分の親切心からくるものだと思っている人にとっては。
知っているか、知らないか、ということは全く大切なことではありません。どっちでもいいことです。これはメルマガでも繰り返し申し上げてきたことです。だからおそらく、わりと重要なことだと思います。書いている本人は重要性にあまり気づいてないですけど。
知っているから偉いわけではありませんし、知らないから偉いわけでもありません。どちらも等しく、どっちでもいい。
唯一大切なことは、知りたいのか、知りたくないのか。自分は何をどれほどに、どのように知りたいのか。それだけです。
この人が知らないことを私は知っている。だからそれを教えてあげればこの人は喜び、良い思いをできるに違いない。
その考え方は一見親切であり、奉仕であり、無私であると思われがちです。
知識の移動、知識の継承の中に、本当の喜びがあると僕は思いません。
自分自身の中に持つものに、愛があるとは思いません。
それは自分の持ち物であって、愛は、自分の所有物ではありません。生まれた瞬間から相手の所有物なのです。
愛を自分の持ち物であるとお思いの方は、大変多い。それが連綿と悲劇をループさせてきましたし、これからもその輪を抜け出すことがありません。
コミュニティは裂けて互いに断絶しさらに細かく細かく分裂していきます。
これは、自分が知っていて相手が知らないこと、自分が知らず相手が知っていること、の数が飛躍的に増えているということです。
コミュニティが柔軟につながってゆるやかな一つの集団を形成していたころには、特に苦もなく、あるいは意識することすらなく、知識の移動や継承が行われていました。
今は「知識の差」を攻撃、あるいは排除をするための道具として使用します。細分化、専門化された知識たちが、孤立するための手段、相手を屈服させ優劣をつけるための手段として利用されている。
これは例えば、教養のある人とない人の戦いとかいう、単純な上下格差の話ではありません。
誰しも自分が無知であることを武器に、弱い立場の人間の境遇を知らないという事実を武器に、誰かを攻撃したことがあるはずです。
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たまたま助手席に乗せてもらった車でFMラジオが流れていまして、ああ、ラジオ聞くの何年ぶりかなと少し懐かしい思いにもなりながら耳を傾けていたんですが、ある曲が流れてきまして、僕は、「これ○○(バンド名)の劣化コピーだな、全てが似てて全てがつまらない。でもしょうがないか、人気だし真似しちゃうよね」とか思っていました。すみません、僕のような者が音楽を評するなんて死刑レベルの罪悪だとは思うんですが、ついつい昔の癖で。で、曲紹介を聞いたら、その○○というバンドの新曲だった、というのがこのエピソードのオチなんですけど。
この体験を最近2回しまして。違うバンドで。しかもどっちも知らないわけではないバンドで。思ったわけです。
年をとると、才能は減っていくんだと。
天才の定義というものが個人的に一つありまして、やりたいことが死ぬまでなくならないこと、というのがそれなんですが、その資質を持つ人は、非常に稀です。ほとんどの人は、若い時には才能と活力に満ち溢れるが、やがてやりたいことがなくなり、何をしたらいいのか分からなくなり、やる気がなくなります。
アーティスト気質として、常に新しく革新的で、以前の自分より良い物を作って越えていきたいと願う気持ちはどこかにある。だからどうにかこうにか、以前のものとは違うものを作ろうとします。が、なかなかそうは上手くいかない。
顔を上げれば、過去の鎖につながれたファンたちが、「昔みたいな曲作れ、昔みたいな曲作れ」と、魔女裁判のような趣きで周りを取り囲んでくるわけですよね。
生きていくためにも、一度味わって捨てられないチヤホヤの記憶のためにも、年老いた彼らは、「自らの劣化コピー」を始めてしまいます。昔の自分に似た、つまらない何かを作る。
いや、そういうものなんですよ。誰だって。誰もがピカソなわけではありません。才能で金を稼ぐほとんどの人は、必ずその才能を枯渇させます。「昔に比べてつまらなくなった」というのは、当たり前なんです。
「劣化」というのは主にアイドルやタレントの女の子に対してネットの人たちがよく使う言葉でもあります。
10代から20代にかけての女性は、まだ成長の途上です。身体的に未完成であると言っても過言ではありません。
骨格も肉付きも、毎日どんどん変わります。顔の骨も毎日のように動きます。
その、動いている真っ只中の人間のある一瞬を切り取って、完成品であると言って消費しているんですから、いい気なもんですよね。
僕の世代の関西人にとって、ダウンタウンは唯一神のような存在です。言いすぎですか。少なくとも僕にとってはそうです。ですが僕は、ダウンタウンでさえ年を取って、つまらなくなることは当然であると思っています。そういうものなんです。
しかしここでもまた田舎の魔女裁判みたいなやつらが、「昔みたいなコントやれ、昔みたいなトークやれ」と鋤や鍬を持って取り囲んできます。
誰も昔みたいになんてできないんです。やりたくてもできないんです。そしてそれが当たり前なんです。なのに過去の鎖につながれた他人や、そして自分自身が、ありもしないものにすがるんです。
“昨日、あるいは数多くの昨日からなる過去すなわち思考が、『私が前に感じたような幸福な状態にいつまでもいたい』と言うわけである。あなたは死んだ過去を現在によみがえらせ、それが明日なくなるのではないかと恐れているのである。こうして連続性の鎖が作りあげられる。” (クリシュナムルティ)
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今、日本の子供たちに目指してほしい職業は、YouTuberなんかではなくて、「Twitterの企業アカウントの中の人」だと思うんですよね。あんなに素晴らしい仕事はなかなかありません。職業に貴賎なしという言葉は嘘ですね、Twitterの企業アカウントの中の人こそ、現代の日本における聖職と呼ぶにふさわしい仕事だと思います。
それはさておき、そりゃあ僕だって、できればご購読のみなさんに、僕の身の回りで起こった、ユニークでユーモラスで風刺の効いた、含蓄があって軽妙で分かる人には分かるマニアックな小ネタが挿入された幸福感に包まれるようなエピソードをお届けしたいと思いますよ。思いますよ。
しかしそれが己の欲求なのかと問われれば否であって、サービス精神、ただひたすらにサービス精神からくるものです。
サービス需要があるかどうかは知りませんけど。供給する側からすればそうです。
タレントは職業柄、往々にして「最近あった出来事のエピソード」を要求されます。トークバラエティはもちろんのこと、フリートークでの時間つなぎや、そのエピソードを元にした企画などもあって、つまりは日々、身を削って、自分の生活を金に換えていかねばなりません。これがまあ、大変な作業なんですよ。僕らは当然の権利のような顔してそれらを享受しますけども。
「猫が大好きなんです」
「へえー猫が好きなんですか」
「はい」
「へえー」
「…」
「…」
-----アイドル(いるだけで許される観賞用)の壁-----
「飼ってらっしゃるんですか」
「はい、飼ってます」
「どんな猫ちゃんなんですか」
「それがー、この前おれのギターの中でウンコしてー」
「大変ですね」
「うちのキヨシみたいなやつだなー、みたいな(笑)」
「キヨシ」
「あ、何でもないです、すいません」
-----ミュージシャン(斜に構えた内輪ノリでファンだけが楽しむ)の壁-----
芸能人なんだからエピソードを面白おかしく話せて当然とお考えになるかもしれません。しかしほとんどの場合、それをできることを見込まれて事務所に所属できたり、あるいはオーディションに合格したり、ということはありません。面白おかしくエピソードを話す能力によって見出される、あるいは世に出たいと願う、ということは非常に稀です。
それらは現状において肩書きとなる特殊能力ではなく、全てのタレントに求められ、できないと分かると軽く舌打ちされるといったような能力だからです。
面白いオカマがいたから連れて来た、テレビに出した、確かに話が面白い、しかしいくら面白くてもそのオカマは、オカマでなければテレビには出ません。ハーフも同じです。エピソードトークができるからテレビに出られるわけではない。
エピソードトークが面白い、は、みなさまの疑問や違和感や猜疑心を、すくなくとも一枚突き破る肩書きにはなりえないのです。トークバラエティと呼ばれる番組に呼ばれ渾身のエピソードトークをかまして大爆笑をとるためには、肩書きという通行許可証が必要です。なぜなら僕たちは、「何を話しているか」よりも「誰が話しているか」を、より重視するからですよね。
…何の話でしたっけ。何の話でもありませんでした。今回は終始何の話でもない話になりそうです。
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よく、無感情であるとか、無感動であるとか、無表情であるとか、何考えてるのか分からないとか、そういう新人類(笑)的なご指摘をいまだに受けがちです。いつもむっつりつまらなそうな顔をしていると。
それはですね、何を考えてるのか分からないのではなくて、本当につまらないと思ってるんです。
僕は感情が態度にあからさまに出ます。不機嫌そうに見えるのは、不機嫌そうに見えるのではなく、本当に不機嫌なんです。面白くないのに笑ったりしないんです。悲しくもないのに泣いたりしないんです。何考えてるのか分からないように見えるときは、あなたとは全く関係のない別のことを考えてるんです。
こんなに分かりやすい人間が他にありますか。いばることじゃないですね。
相も変わらず世間では、光と闇とか、表と裏とか、二面あるよと言えば、「深い」とか言ってもらえます。人間の二面性を、とか言うだけで芸術とか名乗っていいことになっています。楽勝ですよね。たったの二面で「深い」ですよ?
裏の顔、とは一体何なんでしょうか。よく使われる言葉ですけど。
お考えになったことはありますか。
自分には裏の顔がある、とお考えでしょうか。
表は嘘で、裏は真実、なのでしょうか。
人間に面などない。繰り返す、人間に面などない。
この「二面性ごときでありがたがる風潮」というのは、もちろん、記号にしか反応できなくなった現代社会の特徴の一つです。ありのままを丸呑みで受け入れても咀嚼できない。「つまりこれは、どういう味?」「つまりこれは…甘いです」「甘いのか。分かりました、これは甘い!で、こっちは?」「甘さの中に苦みがあります」「甘くて苦い?2個も味あるの?複雑!すごい!最高!」
「あの人はデブで貧乳で大人しくてジャニーズが好きで猫飼ってて関西弁で蟹座O型」
自分が知っている記号の枠に押し込んで類型化し、人間の何かを分かったような気分になる。はみ出た部分はヘラでギャッとこそぎ落として素知らぬ顔です。それは、そうすれば気分が良いからそうしているわけではなく、それ以上の咀嚼が、できなくなってしまったからです。記号以上の意味は、既知の枠を超える部分は、疲れるからもう考えたくない。
人間は、未知を恐れる。夜を恐れ、森を恐れ、死を恐れた。
火を燃やし、木を伐り、宗教にすがった。未知をなくすのは、探求心とは、恐怖心とは、すなわち恐怖から逃げることに他ならない。
人間は、人間を恐れる。
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同窓会的なのがあったんです。大学の。
お前みたいなやつに同窓会のお知らせなんか届くわけないだろ! いやほんとその通りですよね。
何度かお話をしたことがありますとおり、僕はいわゆる前時代の遺物的な大学生活を送っておりましてつまり、ほとんど大学に行っていません。誰かにノートをコピーさせてもらって一晩暗記してテストだけ受けに行くっていうやつでした。
つまり学部には顔見知りも友達もいないわけです。…言っててさすがに寂しくなりました。19歳の時点でこんなんかよ。
そんなことはどうでもよく、僕の学生時代は主にバイトかサークルでサッカーかのどちらかで、集まってどうこうするというのはサークルの同期しかおりません。
僕がこういった集まりに参加するのは5年ぶりぐらいでした。
彼らも定例で開催しているわけではないと思うんですが、同期のうち二人がしばらく海外勤務になるらしく、その送別会というか壮行会というか、そういう感じでした今回。
やばくないですか。海外勤務ですよ海外勤務。そんなことで騒いでる僕もたいがい幼稚ですけど。
同期のみなさんは、それなりのメジャー業種のそれなりに大きい企業でそれなりに頑張って働いている、それなりのエリートです。それなりの大学を出ていますので、だいたいそういうことになります。
毎日のようにいちゃいちゃと過ごしてきた友達も働き始めるとあっという間に疎遠になります。
忙しさや距離的な問題もそうですが、何より共通の話題をどんどん失っていくということに一番の寂しさはあります。互いに全く違う世界で生きていくことになるわけですから。同業種であったり、もしくは少なくとも会社員であったりすれば、まだ何がしかの比較軸があるので話もしやすい。しかし僕のような人生の落伍者が混ざると、そういうわけにはいかなくなります。
この話は以前にもしましたね。つまり今回もそういう気分は味わいました。
僕が混ざると、いつもの昔話にしかならない。僕はそれを心中では嫌がっているけど、裏を返せば彼らが僕と何を話せばいいのか分からず困っているということでもあります。気を遣われているんですよね。それも嫌な理由でもある。
こういった気遣いが生まれてしまうこと自体が疎遠になってしまった証拠でもあって、悪循環です。
何のしがらみも持たずアホみたいな顔して適当に生きて、もうイヤだから仕事辞めたとか言い始める。そんなこいつは必死に働き続ける自分のことをバカにし見下しているかもしれない。気を遣うどころか、誰だって嫌ですよね、そんなヤツ。
もう就職して20年近くが経ちました。経ちましたとかカッコつけてますけど僕以外のやつのことです、僕はしてないんで。
彼らはすっかり企業社会の仕組みを理解した立派な大人であるはずなのに、頑張ってくだらない話ばかりをしてくれます。
その気遣いを無駄にしないよう、僕は懸命にくだらない話をします。
気遣いが断崖の淵を優しくなぞる。
20歳にもなれば、集団の中での自分の位置を、どうしたって強く意識して行動するわけで、何もかもをさらけ出して付き合うということは本当は難しい。
何かを分かったようなツラをしてしまうバカ大学生はまさに、ゴテゴテと自分を鎧で着飾ることを覚える年齢です。そして今、40を越えて無知と無力の波に溺れ、鎧の重みで沈みそうになっている。
彼らのことを本当の意味で知ったことは、日々顔を合わせていたあの数年間の中でも、きっとなかった。これからもないでしょう。しかし僕は、こうして適切な距離から届く彼らの優しさを受け取ることができています。
........
言葉が正しいとか正しくないとか良いとか悪いとか、一介の人間が軽々しく口にしてはいけないんですよ。例えばの話ですけどね。
なぜ自分がそんなことをジャッジする権利を有していると思えるのでしょうか。正しい送り仮名も、正しい漢字も、正しい慣用句も、正しい「てにをは」も、存在しない。僕たちはただひたすらに、使うだけなんです。言葉を。
言葉は常に動き、流れ、もがいたり暴れたり排泄したり枝葉を枯らしたりして、ひとつ所にとどまることはありません。「これが正しい言葉でおます!」と指差しても、言葉はもうそこにはない。どんどん先のほうへと流れていきます。僕たちはただその流れに身を任せるだけです。
これはいわゆる言葉狩りに対して何事かを言おうとしているわけでは全くありません。
言葉は自由です。お釈迦様の手のひらの上のごとく、僕たちを自由に転がせてくれます。筋斗雲でヘトヘトになるまで遠くに飛んでも、言葉の外にこぼれ出てしまうことはありません。正しい使い方はない。間違った使い方もない。ただ言葉がある。
これから言葉を覚え、もう一つの目を開かんとする子供たちに言葉を教える立場の人は、それは教員だろうと親だろうと誰でもそうですが、上述のことを理解した上で、国語やら文法やらを教えるべきでしょう。ルールを教えるななどという極論はもちろん言いません。
正しいから教えているわけではなく、お釈迦様の手のひらの上に乗るための、入口の場所を教えるにすぎない。何かを強制しているのだとすれば、それは愚かな自分の愚かな好みを愚かにも押し付けているにすぎない。
「今後の人生において社会から弾きだされないようにしたいと、キミがいつか決めた時に困らないよう、約束事を教えるが、それにあたって、正しいとか間違っているとか○とか×とか言って申し訳ない。本当はそんなものはないんだ」と、心の中で子供に謝罪してください。
なぜ自由であるはずの言葉の、なぜ絶え間なく流れ続ける言葉を、ルールで縛らなければならないのかについても合わせて、子供たちに是非教えてあげてほしいと思います。
正しい言葉は、もしかしたらあるのかもしれない。しかしそれは、人間には決して見つけられないものです。正義と同じ。
自分の趣味趣向を、正義や優劣とすり替えてはいけません。正義だから正義なんだと押し付けられたものを、正義だから正義なんだと妄信してはいけないし、させてはいけません。言葉は、全ての人間の遥か上空に、そしてどこまでも続く地面にある。自由に空気を吸い、自由に歩いていいのです。
言葉は道具です。僕たち人間がかつて生み出した、「道具」です。言葉が人間を生み出したのではありません。自らを、より自由にするための道具として作ったのが、言葉です。自らを縛るような道具は、道具ではない。捨てておしまいなさい。
........
「これって私だけ?」
本当に自分だけじゃないのかと思っていることを口にせず、多くの人が同じ境遇、同じ意見であるはずだと思っていることについては声をあげる。
自分の特別さについて慎重に吟味する。異端ではなく中心で。他人が同様に持つ事柄のうち、「レベルが相対的に特別であるもの」を選んで、声をあげる。
真の特別さのほとんどは、人知れず固く抱えられ墓へと持ち込まれていきます。当人さえ知らないまま埋もれていく特別さも、稀ではありません。互いに特別さを隠し合い、自分に似せた人形を自分の前に置いて僕たちはコミュニケーションをとります。
他人のことが分からないのと同様に、自分のことも分からない。自分の何が特別で、他人の何が特別なのか、僕たちには知ることができない。
真の特別さは、比べるものがない。
真の特別さは、思っていても言えない。
恥ずかしい思いをしたり緊張したりすると、僕は顔面が縞模様になります。
例えて言うならば、スイカのような緑と黒のシマシマだそうです。
僕はその縞模様を、自身の目で見たことが一度もありません。
スイカが顔面に現れるのはほんの一瞬、まさにストレスを感じたその瞬間です。
生まれてから今まで、自分の身にそんなことが起こっているなどとは知らずにすごしてきました。
それまで何事もなく会話していた周囲の人たちが突然目を見開いて驚き、口をつぐんで後ずさりする。首をかしげてどうしたのかと問うてみても、まともにこちらを見ようともしない。金切り声をあげて逃げ出す子さえいました。僕は得体のしれない不安に錐揉みされるがまま、人から避けられ、嫌われ、いじめられました。
なぜ僕は、こんなにも人から嫌われるのだろうか。
悩めば悩んだ数だけ、その理由は見つかります。嫌われる原因が増えていきます。
僕はどんどん、嫌な人間になっていきました。
ある時、出会ったばかりの女の子が、意地の悪そうな顔をして僕に言いました。
「お前、何で顔にシマシマ出てんの? 気持ち悪いんだけど」
顔にシマシマ、の意味が分からずに黙って彼女の顔を見ていると、「うわ消えた。あっ、また出た。きも」と眉をひそめられ僕は、鏡見てこいと尻を蹴られました。
トイレの鏡に映るのは、のっぺりした米粒のような、いつもどおりの自分の顔で、あの子もきっと、仲間内の罰ゲームで僕をからかいにきたのだろう、面と向かって女性と話したのはいつぶりだろうと思いつつ、顔を洗いました。
僕が嫌われる理由を、僕は知ることができません。
僕が知ることができるのは、僕が嫌われているという事実だけです。
その事実が僕の内に、数えきれないほどの嫌われる理由を作り、僕は真の理由を知る必要もなくなってしまいました。
........
「写真・動画の撮影を一切禁止します」と言われて、あなたは旅行に出かけますか?
写メも、ムービーも、ダメです。出かけますか?
一定数、「じゃあ行かない」と答える方がいるだろうと思うんですよ。一方で多くの方は、この問いに殊更大きな声で、YESとお答えになるだろうとも推察するんです。そっちのほうが得点が高い、人間としての格が高いだろうと踏んで。しかしこれは心理テストでも就活の面接でもありません。ただの質問です。どれくらい行かないんだろうな。興味あります。
アンケートやテスト、こういった質問の「結果」が信頼に足るものかどうか、というのは、例えばそれが大手の調査会社や新聞社や政府など、いわゆる権威ある者によって行われたものかどうか、というのには、あまり依存してないですよね。だって僕もあなたも、嘘をつきますから。すぐに。簡単に。相手が誰であろうと。どんなに些細な内容であろうと。
初体験の年齢やちんこのでかさアンケートが、まともに機能すると思いますか?
「川で年寄りが溺れている、あなたは助けますか?」という質問の答えが、世の倫理観を真っ当に反映すると思いますか?
僕もあなたも、容易に嘘をつく。他者からどう見られたいか、どう見られると自分が気持ちいいか、という個々の意思は、その対象となる社会集団の性質に従って、偏ります。強いことがカッコイイとされる集団に所属しているなら、強く見られるような嘘を。気が狂ってることがイケてるとされる集団なら、気が触れているような嘘をつく。
アンケートの結果は、そういった意味では社会情勢を反映します。
“おとなはウソつきではないのです。まちがいをするだけなのです……。”
というのは元々、ジョジョの作者、荒木飛呂彦先生のお言葉ですが、昨今は一人歩きすることも多い文章です。
ツェペリというおっさんの、天涯孤独の身であるという設定をうっかり忘れて、その孫(シィィザーァァァッ)を登場させて子供たちが騒いだため、お詫びを書いた、その詫び文の最後の部分ですね。元々は。
言葉は嘘をつかない。嘘をつくのは、人間です。
この言葉にも嘘はない。「言葉」には。
問題は、この言葉を、大人が大人のために使う、ということです。
自分たちが自分たちの行為を取り繕い言い訳するために、自分たちに向けて使い、後ろめたさを解消する。
言葉の相手であるはずの子供に向けて発した言葉ではない。
大人はウソつきです。子供と同様に、ウソつきです。
子供と同様に、自分の欲求を満足させるためだけに生きている。
ツェペリに孫がいたからって、作者に、「だましたな」「お前は嘘つきだ」なんて送る子供が、いるんですよ。実際に。
それを聞いて、純真だ、作品に愛着を持っている、微笑ましい。とお思いになりますか?
僕は、ガキだろうとおっさんおばはんだろうと、一生変わらずこういうことする奴が一定数いる、との思いを新たにしただけでした。
……っていうのは、トランプ当選とかとは無関係に書いてたやつだったんですが。なぜ書いたんでしたっけ。ブレグジットでした。イギリスのEU離脱の国民投票の件。みなさんはご興味ないだろうとは思いますが。あのブレグジットの時に書いてたメモが上記の文章でした。
嘘をつくこと。
事実ではないことを言えば、自分を守ることができると、思ってしまいます。
なぜ、事実ではないことを言えば、自分を守ることができるんでしょうか。
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出張先のビジネスホテルと言えば、ちょっとした非日常的環境ということでテンションの上がることの一つとされています。
僕は相対的に見ればビジネスホテルの利用が他の方よりも多いためか、あまり楽しいものではありません。ネットがつながり、できれば無線LANが飛んでいさえすれば、あとは寝られればそれで充分です。その話はかつてしたような気がします。
特に感情が動かされるわけでもないビジネスホテルの部屋において、僕がとる唯一と言っていい非日常的行動は、テレビを見ることですね。別にテレビ見てない自慢でもテレビ家にない自慢でも寝てない自慢でもテスト勉強してない自慢でもあのバンドの曲最近聞いてない自慢でも何でもないんですが。テレビ全盛期世代に育った身体の奥底に眠る本能が表出し、あの、何とはなしにリモコンの電源ボタンを押してしまう瞬間がホテルの一室では起きがちです。
夜半、ベッドに横になってホテルのテレビの電源を入れると、映るものは何ですか? そうです、ペイチャンネルへのいざないですよね。その誘いを断りTVボタンを押すと映るものは何ですか? そうです、1チャンですよね。天下のNHK総合です。
導入にだけそっと添えられるシンプルなナレーション。優しい音楽に乗って風光明媚な映像が流れる、ザ・深夜のNHK的なあれです。特に意味もなく電源を入れただけだったので、ぼーっと何も考えずその番組をしばらく眺めていました。
画面右上には番組タイトルが表示されていました。『北アルプス』。武骨でたいへん良いタイトルだと思いました。そんな番組があるんですね。
ほどなくして、落ち着いたトーンのナレーションがスッと入ります。
「今夜は、『北アルプスの四季』をお送りしています」
全部やん。
それ。
『北アルプス』 第一回 北アルプスの四季
全てやん。それ。そんなことありますか? 四季以外に北アルプスの紹介すること何かありますか?
普通、「今夜は北アルプスの春をお送りしています」でしょ? で来週は夏、その次は秋、冬、でしょ? 四季て。
『真田丸』 第一回 真田信繁の一生 とおんなじじゃないですか。分けろ分けろ。包括しすぎ!バランス悪い!アホか!
…みたいなことを狭いシングルルームで僕はひとり、画面に向かって叫んでいました。
まあ、全部ウソなんですけど。
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(*メルマガNo.065 2012/10/23)
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運命。運命。運命。
運命という言葉は、すべて結果論で使用されます。
起こった結果をあとづけで、「運命」と呼ぶのが都合よければ、僕たちはそう呼ぶ。
僕たちが僕たちであるならば、すべてのことは偶然です。
偶然出会い、偶然食べ、偶然買い、偶然笑い、偶然セックスして、偶然寝る。
「そんなことはない、自らの意志で選んだのだ、掴んだのだ」
「そんなことはない、これはもっと神とか仏とか、大いなる意思によって定められていたのだ」
自由意思によって自分の行動を決定できる、ということが素晴らしいことではなくて、
自らの意志で自分の行動を決定した、と思える環境であることが素晴らしいのです。
実際は違う。
大いなる意思によってあらかじめ決められていた、ということが素敵なことなのではなくて、
そう信じることによって精神状況が素敵になった、ということです。
実際は違う。
僕たちは身の上に起こった出来事を、その時の自分の精神状況に応じて、
「自分で選んだ」「誰かのせいだった」「運命だった」と使い分けて結論します。
どれを選べば、自分の精神状態が最も良好に保たれるかによって、それらは決まる。
そしてそれらは全て、偶然起こり続けることの点の連続に過ぎません。
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偶然を運命と呼んでしまう。
その理由はただひとつ、人生が二度ない、からです。
来世もないし、死後の世界もない。
サイコロの出る目の確率はそれぞれ6分の1ですが、僕たちに人生は6度も訪れない。
6度訪れなかろうが、出たサイコロの目は偶然ですが、もうサイコロを振る機会は来ない。
それを運命と呼ぶなら、それはそれで、結構なことだと思います。
僕は全てが偶然でたまたまでカオス理論であっても、十分楽しいんじゃないかなとは思いますが。
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先日、ある打ち合わせが終わって駅まで移動する際、歩きながらの仕事の話がややこぼれて解散地点で終わらなかったため、仕事相手は、タバコでも吸いながら、と喫煙ルームへと入って行きました。
僕はタバコ臭い密閉空間は好きではないですが、だからといって鬼婆みたいに包丁持って暴れるほど嫌いなわけではなく、だからといって喫茶店に改めて入るほど彼と長く一緒にいたいわけでもないため、彼に続きました。
一人の見知らぬ男が近づいてきます。肩から小さなショルダーバッグを提げ、手にはクリップボードを持っていました。
「あのー、ただいま、iQOSのアンケートの…ご協力をお願いしているんですが…」
今めちゃくちゃ売れているとかいう、煙の出ない、湯気が出る、電子蒸しタバコのことです。アイコス。
あれの販促の人なんでしょうか、声をかけてきました。
この喫煙ルームには今10人くらいいます。一斉にこちらを黙って注視しています。なぜ、よりにもよって僕に声をかけるのか。
みなさんは全くご存知ないかもしれませんが、僕は人から注目されることが非常に嫌いであると同時に、他人に対して非常に気を遣ってしまう、みなさんを全員束にしても敵わないくらいの常識人なんです。ご存知ないと思いますけど。
分かりますか。どこの誰かも分からない赤の他人の視線を浴びる密閉空間、逃れることもできず、明らかに仕事の話をしている真っ最中の僕に話しかけてくる失礼極まりない赤の他人のおっさんを、しかし無視するのもどうかと思い苦悶する、大変かわいらしい僕のこの胸の内を。ていうかお前も「今ちょっと僕ら仕事の話してるんで」とか助け舟出せよ。おい。お前。おい。
それは当然そうで、僕としても、「今ちょっと大事な話をしてるんですみません」と答えればよかったんです、むしろ答えるべきだったんです。
「今…すみません少しだけ…おおお時間いただけますでしょう…か…」
半そでYシャツの首元を濡らす汗は、明らかに暑さのためではありません。iQOSの男は、こちらが怖くなるほどにブルブルと震えていました。脂汗ですこれは。ビシャビシャやないかお前。
失礼ながら、喫煙所で適当に声かけてアンケートに答えてもらうだけ、断られたら失礼しましたで終わればいいだけの仕事に、彼はおそらく異常に緊張しています。良い年したおっさんがブルブル震えるさまに、憐憫の情すら湧いてくるではありませんか。僕は断れませんでした。
「よかったら、iQOS、試してみませんか…?」ブルブルブルブルブル震えてる!!!手に持ってるiQOSがめっちゃ震えてる!!!危ない危ない! 俺の指がiQOSでぺチぺチぺチってなる!!!
…どんだけ震えてるんですか。
おそらくは広告代理店が下請けに発注した、その会社の派遣の人だと思うんですけど。全然慣れてないじゃないですか。他人に話しかけるの、めっちゃ苦手じゃないですか。
おそらく彼は本当にイヤなんでしょうね、この業務。心の底からやりたくないと思いながらやってるんだろうと推察します。で、そういう思いで仕事をしている40代50代60代の人って、めちゃくちゃ多いと思うんですよ。もう人生も折り返してここからは下り坂だというところまで来ているのにも関わらず。いまだに、死ぬほど嫌なことに自分の人生の一部を売って、幾ばくかのお金に代えている。
本当に偉い!とも言える。養うべき家族や、目的のためにぐっとこらえて金を稼ごうとしている姿を応援したい、とも思える。
一方では、良い年して何しとんねんおっさん、とも思う。もうすぐ死ぬのに、まだ嫌なことのために貴重な人生の残り時間を使ってるのか、もったいなさすぎるだろ、喜びとまでは言わないがせめてあんまり嫌じゃないことで金稼ぎなよ、と言いたくなる。
僕は家庭を持っていないゴミクズなので好き勝手なことが言えるし好き勝手なことができます。
家族を持てば、そんな自由はないのだと、嫌だからと言ってホイホイと仕事を辞めたり変えたりはできないのだと、いうのも分かります。
僕を見るにつけ、みなさんは、お前らの業界はお前みたいなゴミばっかりなのだろうと、うっかり思っておしまいになるかもしれませんが、実際はそんなこともありません。クズは僕一人くらいのもので、多くは企業に所属する真っ当な社会人です。
せっかくのポテンシャルを持ちながら、家庭を持つことで皮がむけきれず、この世界に何も刻まない人物で終わってしまった人も見たことがあります。余計なお世話ですけど。
一方で、家庭を持ちながら権力の道を邁進する。出世街道といっても差し支えはないかもしれませんが、そういう方はたくさんいらっしゃいますよね。その二つは、厳密に言えば表裏の関係にはないのかもしれない。夫の地位が高まることを第一に望む妻や子供も当然いるでしょうし。
家庭第一、家族第一の信条を携えて、真に新しく面白いものを追求し道なき道を進むというのには、無理があります。悪意はありません。僕だって奥さんや子供がいれば、僕だって奥さんや子供がいればっていう書き出しは最低に気持ち悪いですね。それはともかく、家族のためにお金がたくさんもらえるクソみたいな仕事を進んで請け負う可能性は十分あるだろうと容易に想像できます。
何かを犠牲にしないと何かを手に入れることができない、と言っているわけではありません。
「一番」を選ぶことのできない人は、いつ訪れるか分からない大切な一瞬、待ったなしの瞬間に、何も守ることができない、と言っています。
どれも好きだから選べない、というのは、何も愛していないのと、同義です。
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