山本山本佳宏 yanmo.jp

小説(習作)

裂け目 4

 目に見えているものが、一歩踏み出した途端、前に突き出した掌に触れ水紋を描いて歪んでいく。道も草も石も空気も、暗がりの中、右手をかざして立ち止まる自分の後ろ姿も。進むはずの行く先が、進むことによって滲んでいく。

 手に力を込めて真ん中の道をさらにもう一歩進むと、歪んだ光景に一筋の大きな裂け目が天に向かって走り、構わずトキはぞんざいに、裂け目に身体をねじり入れ、そこには暗がりの中に浮かびあがる、白く細い三本の道の分岐がありました。何度選んでも、何度突き破っても、何度進んでも、変わらぬ分かれ道。一本の道を選ぶことが、三本の分かれ道を生んでいるのです。元来た道を戻ろうと振り返っても、そこに道はなく、ずっしりと濁った闇があるだけでした。

 同じことの繰り返しなら、なぜ前に進まなければならないのでしょう。トキはその場に乱暴に腰を下ろして腕を組み、見慣れてしまった三本の道を睨みつけました。この道の先に何があるのか、何が待ち構えているのかを知りたい。それがトキの望みであり、道を選んで前に進んだ動機でした。しかしいくら進んでも答えはなく、代わりに与えられるのはいつも問いです。同じ問いです。


裂け目 3

 三本の道が再び目の前に現れるまで、どれくらいの時間が経ったのか、トキには分かりませんでしたし、知ろうとも思いませんでした。急ぐ必要も、のんびり行く必要も、どちらもないのです。時間を気にしなければいけない理由が、トキにはありません。急いでも、急がなくても、それは時間とは全く関係がない。始まりと終わりがあって初めて、時間は生まれるのです。彷徨うとは、彼にとってそういうことでした。


裂け目 2

(この章を読むのに必要な時間:約3)

 

 目が慣れてきたのか、それともどこからか明かりが差してきたのか、大草原のうねりがトキにも見えるようになっていました。小高い丘の上に、ひときわ濃く一本の木の影が、ぽつんと伸びていました。

 


裂け目


 薄く高くなった雲に小さな小さな丸い穴が開いて、半分の月が顔を出しました。

 うねりながら果てしなく続く大草原に小高い丘があって、枝が茸のように広く横に張った大きなクスノキがぽつんと、立っています。永遠に続くかと思われた長く強い雨がようやく止んで、雨粒が落ちているのは樹の下だけになりました。

 クスノキが落とした最後のひとしずくがまぶたに当たって、トキは目を覚ましました。雨宿りをしているうちに眠ってしまっていたのです。


豚の女 1

(この章を読むのに必要な時間:約220)

 

 その女は頻繁にピザを注文した。週に一度は必ず、多い時には三日と置かず電話をかけてくることもあった。単身者向けのマンションも多く並ぶ住宅街にあって平日も注文の多い宅配ピザ屋ではあったが、大抵の客は多くとも月に一度程度の注文でそれでも彼らはバイトたちから常連客として扱われ、顔や好みのピザや電話での話し方であだ名がついたりもした。トッピングなしでチーズだけを三倍増しで乗せたピザばかり注文する痩せぎすな中年男は、いつも絵の具のようなもので腹の辺りが汚れたシャツを着て玄関に出てくるので、あだ名は美術だった。エレベーターのない団地の主婦は度々同じ棟の主婦と子どもを集め、一度に四枚も五枚もピザを階段で運ばせるので、五階のババアと呼ばれていた。しかし、その女にうけはあだ名がなく、あの女、と呼ばれた。

  アルバイトの足立は数日の見習い期間を終えて一人で宅配することを許されたばかりの新大学生である。高校時代は部活動に明け暮れたためこれが生まれて初めてのバイトであると、同僚に訊ねられるたび彼は固太りした肩を丸めてもごもごと話した。

石鹸

(この作品を読むのに必要な時間:約240)

 

 薄褐色のハトロン紙と柿色の色紙を丁寧に重ねた包装を剥がすと、卯の花色のハンドメイドの石鹸が穏やかな四角さを保って現れた。紫がかったサルビアブルーの筋がゆったりとマーブル模様を描いている。グレープフルーツの香りがなお一層、夏を吹き抜ける風を呼んだ。


切った髪の匂い 2

(この作品を読むのに必要な時間:約2)

 

 美容室の床に落ちた髪が美味しそうだ、と物心ついた時から感じていた。濡れた髪がいくつもいくつも笹の葉のように白いクロスにはらりと落ちて光っている。幼い私は息を飲んでおずおずとそのうちの一束を指で摘まみ、飽きもせずじっと眺めた。じっと眺めた末おもむろに舌を伸ばして笹の葉を口に運ぼうとして母に手をはたかれ泣いた。泣きながら隣で髪を切っていた女の周りに落ちた大量の毛をギロギロと横目で見ていた記憶。一人で髪を切りに行くようになって髪を濡らさず切るようになって、スライスチョコのような繊細な食べ物に生まれ変わった髪の毛を見た時の初恋にも食欲にも似た記憶。


切った髪の匂い

(この作品を読むのに必要な時間:約220)


 美容師の目を盗んでクロスの中に両腕を仕舞ってふわりとしゃがみ、誰にも気づかれないよう床に落ちた自分の髪を一掴み、拾う。髪の匂いは一刹那。汗にまみれた手でいつまでも握っておくことはできない。ポケットに押し込んで持ち帰ることもできない。床に這って鼻をすりつけたい情動を抑えて女は、白いクロスから音もなく手を出し、鼻の頭でも掻くような素知らぬ顔で顔に近づける。

死角 5

(この章を読むのに必要な時間:約3)

 

 自分の目には、自分の身体がどのくらい見えているのかと思った途端に視界が窮屈になった。

 顎を懸命に引いて鼻の下を伸ばしてみたり首を厳しく斜め後ろに捻ったりして気づく、自分の身体の大半は、自分では見られない。胡坐をかいて足の裏をひっくり返し、でんぐり返りをして尻を近づけても、それらの窮屈な姿勢がより一層、自分の死角を鮮明にさせた。私は私の身体さえ、全てを見ることができない。


死角 3


(この章を読むのに必要な時間:約210)

 

 嘘を互いに許しあうことができる社会が優しい社会じゃないかと同僚は言った。嘘をついたことを責めあっても何も生まれない、だから俺は嘘を許す、お前も許せと。

 嘘を互いに許しあうことができる社会は優しいかもしれない、優しいかもしれないがそれは偽薬だ。どんな嘘であっても嘘をつくという行為が心身にどれだけの負担をかけているのかを自覚したことがお前にはないのか。嘘は身体に良くない、偽薬で気分を紛らわせているうちにいつの間にか全身が蝕まれて、あれおかしいなおかしいな痛いイタイイタイと言いながら死んでいくのだ。互いに嘘をつかなくても良い社会こそが優しい社会で、無理か無理でないかを問わずそれを目指すのが優しさだろう。


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