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 美容師の目を盗んでクロスの中に両腕を仕舞ってふわりとしゃがみ、誰にも気づかれないよう床に落ちた自分の髪を一掴み、拾う。髪の匂いは一刹那。汗にまみれた手でいつまでも握っておくことはできない。ポケットに押し込んで持ち帰ることもできない。床に這って鼻をすりつけたい情動を抑えて女は、白いクロスから音もなく手を出し、鼻の頭でも掻くような素知らぬ顔で顔に近づける。


 肩や腕を滑り落ちた髪の束は午後の陽ざしを受けて薄く透け、空気をほんのりと孕んで、静かに瑞々しく床に層を作る。落ち葉よりも静かで、雪よりも瑞々しい。切り落とされたばかりの髪は、何よりも繊細で上品だ、生えている時よりもずっと。

 髪を切るのが好きなのではない、切った髪が好きなのだ、だから私は髪を切る。

 切って綺麗に整えられた髪が好きなのではない、切られて床に落ちた髪が好きなのだ、だから私は髪を切る。

 皮膚から芽を出し日に〇・四ミリずつ伸びるその様は、春の草木そのものだ、なのに人は髪を死んだ細胞の塊だと言う。人間は頭から、呼吸もせずに硬直した死体をぶら下げて歩いているのだと。

 シャンプーの匂い、私の匂い、空気の匂い、私の匂い、動物の匂い、私の匂い、他人の匂い、私の匂い。細く細くうず高く積み上げられた短い髪の山を崩さないようにそっと持ち上げ、静かに匂いを嗅ぐ。私の身体から離れ、他者となった髪の毛は外界の息吹をひと時、取り込んで、真に死んでいく。私はその刹那を目撃する。

 一センチほどの短い髪が数本、鼻腔に飛び込み顔の中心が痙攣する。私はくしゃみもしないし咳もしない。髪の匂いがまだそこに留まる間だけは、鼻の穴に何本髪が刺さろうとも私は全身を震わせながら穏やかな呼吸を続ける。

 やがて匂いが消え去って手には汗にまみれたゴミが残って私は狂ったようにくしゃみを繰り返して美容師が大丈夫ですかと駆け寄ってきて大丈夫です花粉ですかねと答えながら私は、クロスの中でバチバチと手を払う。

 

 家の鏡に映る、剃髪した自分を見て私は安堵を覚えた。床には剃り落としたばかりの髪が私を囲むように黒々と落ちている。しかし私は匂いを嗅がず、まだ鏡を見ていた。

 生々しい頭皮を撫でながら私はこれこそが私である、もう覚えてもいないほどの昔からこの姿であったような気分に包まれて穏やかに笑った。狂ったような軽快さで掃除機が髪の毛を吸い込んで私はベッドに入った。夢の中の私は髪が肩にかかる私だった。翌朝、鏡の中には、おぞましい異形の化け物が立っていた。

 ソファに座ってカップのコーヒーとともにようやく、そうだったと昨日の記憶を飲み干して、夢の中の私は、その後二週間に渡って長い髪のままだった。目覚めて鏡の前に立つたびに驚き、コーヒーを飲んで、記憶を巻き戻す。私は髪を剃ったのだった。

 一か月後にようやく、髪のない私が夢に姿を現した。しかし次の場面では長髪で、翌日はずっと長いままだった。現れては髪を得意げになびかせる私は、その後半年以上に渡って頭の中に残り続けた末、ようやく記憶から切り落とされた。夢の中でも現実でも、私の頭には髪がない。

 月曜日の朝、いつもの通りにバリカンで数ミリ伸びた毛をチリチリと刈り込んだ後、刃を外して中の毛を掃除する。ティッシュの上にみすぼらしく点々と零れた黒いものを少し眺め、私はおもむろに顔を近づけて匂いを嗅いだ。




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このエントリーは、

ルマガ 山本山本佳宏『二十一世紀の未読』

本日配信分の一部を抜粋したものです。

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