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自分の目には、自分の身体がどのくらい見えているのかと思った途端に視界が窮屈になった。
顎を懸命に引いて鼻の下を伸ばしてみたり首を厳しく斜め後ろに捻ったりして気づく、自分の身体の大半は、自分では見られない。胡坐をかいて足の裏をひっくり返し、でんぐり返りをして尻を近づけても、それらの窮屈な姿勢がより一層、自分の死角を鮮明にさせた。私は私の身体さえ、全てを見ることができない。
ならばと三面鏡を覗き込み、幾重にも反射した像の真ん中でくねくねと身を捩じらせたって、うっかり悪魔を召喚してしまうかもしれないが本来の目的は達成できない。像が増えれば死角も増える。私の顔が右斜め後ろからだとどのように見えるかを知って安堵する私は、その瞬間、顔の左斜め前で何が起こっているのかを知ることはできない。死角はなくならない。
頬や顎の下や後頭部や背中や太ももの裏や尻が、どのような形をしていて、今どのようになっているのかを私は知ることができない。だから私は鏡の前に立ち、顔や体を触り、衣擦れを感じて、私の輪郭を日々確かめる。あるいは、他者によって。他人に写真を撮られ、他人に触れられ、他人に言葉で伝えられる。お前の死角はこうなっていると。
誰もが自分の身体の形を分かっているふりをしている。しかし、本当にその形なのか、お前が思っている通りの形なのかと問われ、それを証拠立てる術は何も持っていない。写真は真実を写す道具ではないし、他人の言葉はなおさらだ。他人に四六時中、全身をくまなく撫でてもらうこともできない。
こうなっているはずだ、この前見たときはそうだった、今もきっとそうだろう、そうに違いないと自分に言い聞かせる。予断こそが日常なのだ。
私の後頭部が突如伸びたとしても、私の尻から鋭い刃物が飛び出したとしても、私にはそれを知る術がない。それを他人の噂として耳にしても、裂けたマットレスという物証を目にしても、私にはそれを信じる術がない。私は信じられる物を求めているのではない、信じられる人を求めている。その人物が自分自身であったとしたら、それに越したことはない。
花時雨の頃を過ぎてアスファルトに薄黒く散った桜と共に夏は来る。季節は圧縮されていく。圧縮後の空いたスペースには気候が残る。私は財布と携帯電話を持って街に出た。
汗ばむ繁華街で私は買い物をするわけでも映画を観るわけでも食事をするわけでも散歩をするわけでも、なかった。ただ人ごみの中を歩いた。誰にも気づかれることのない、並々ならぬ決心を持って。
平日、何をするわけでもなくゆっくり歩く若者たちに交じって、それでもTシャツ一枚で歩く者はまだ少なくて、私だけが気温と湿度に関係しない汗を腋から直線的に流している。
後ろを歩く人たち、すれ違った人たちの反応を振り返って確かめることはできない。そんなことをして目が合ってしまった時の作法を私は知らない。まして彼らが私を見て笑ったり驚いていたりしたとしたらなおさらだ。
目が合っただの合わないだの、運命だの因縁つけただのと殊更に噴き上がってみても、結局は自分が意味を望んだに過ぎないと気づく。元々意味が存在していたのではない。意味があると思いたいから、意味があることにする。意味があると思いたくない時は、なかったことにして忘れる。雑踏の視線には意味がない。今日こそ私はその真実を信じたかったが同時に、その無為の視線に身を委ねることに後悔もしていた。
誰も私になど興味はないし、誰も私のことなど見てはいない。かわいい女の子は目で追われ、かわいくも格好良くもない私は誰からも追われない。
当てはないのだ、この道を突きあたりまで行けば元来た道をまた戻るのだ、当てはないがゆっくりと歩くことができないのだ、少し先の地面だけを見て速足でこの往復を終わらせるしかないのだ、私は誰かに見られているのか、この雑踏で私が他人から見られるとすればそれは。
私にはすれ違う人の顔を窺う勇気も立ち止まって振り返る気力もなかった。自分には見ることのできない自分の死角で何が起こっているのか、それを他人の視線によって知るために今日ここに来たのに、背後で聞こえる、マジで? ヤダー、キモい、の声が果たして自分に、自分の身体に向けられているのかを確かめることができなかった。知人には聞けないからこそ赤の他人の視線を借りたのに、私はそのままスクランブル交差点を駅の方へと渡っていた。
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メルマガ 山本山本佳宏『二十一世紀の未読』
本日配信分の一部を抜粋したものです。
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