(この作品を読むのに必要な時間:約2)

 

 美容室の床に落ちた髪が美味しそうだ、と物心ついた時から感じていた。濡れた髪がいくつもいくつも笹の葉のように白いクロスにはらりと落ちて光っている。幼い私は息を飲んでおずおずとそのうちの一束を指で摘まみ、飽きもせずじっと眺めた。じっと眺めた末おもむろに舌を伸ばして笹の葉を口に運ぼうとして母に手をはたかれ泣いた。泣きながら隣で髪を切っていた女の周りに落ちた大量の毛をギロギロと横目で見ていた記憶。一人で髪を切りに行くようになって髪を濡らさず切るようになって、スライスチョコのような繊細な食べ物に生まれ変わった髪の毛を見た時の初恋にも食欲にも似た記憶。



 食毛症という病気があって、多くの場合は少女がストレスから髪の毛を引き抜き、それを食べてしまうという。胃袋を埋め尽くすほどの髪の毛の塊を手術で摘出したというニュースを見て私はぞっとした。自分は禿げるまで髪をむしり取り胃がはち切れるまで食べるような狂人ではない、私は匂いが、切った髪の匂いが好きなだけだと逃げるように言い聞かせたその夜、たがが外れた。

 洗面台に向かって髪を一束切り落とし、力任せに掴んで貪るように舐め、噛み、嗅いだ。四六時中つまんでは匂いを確かめていたはずの髪の毛は、いつもとは全く違う香りだった。自分の一部であるという認識からくる鈍さ、馴れ、甘えに爽やかな張り手を食らわせた。切った髪の毛の束は自分であり自分でない。むしろ自分の美点だけを抽出したような都合のよいヒトガタでさえあって、私は理想とするもうひとりの自分と裸で絡み合うように涎を垂れ落としてキシキシと髪を噛み、嘔吐した。絡み合う身体を引きはがしてよくよく見ればそれは美しき自分の分身ではなく、醜悪な死体であった。唾液にまみれて腕の中に横たわる、見ず知らずの臭い骸であった。甘美な体験は刹那に過ぎ去って、私は肩で息をした。自分の息の匂いさえ許せなかった。

 

 酒を飲み大きな声で下品なことを同類と明け透けに言い散らかし合うのが大人ということだと知ってからも、私は切った髪に対する思いを誰にも打ち明けられなかった。あの日から私は髪を口にすることを禁忌にしたが、その禁忌からはみ出した衝動は匂いへと流れていった。切った髪の匂い。他人の髪ではなく、自分の髪。長く伸びて垂れ下がる髪ではなく、切られて落ち重なった髪。タバコや食事や汗が染みついた髪ではなく、良い香りのシャンプーとトリートメントで洗い、良く乾かし、切れ味の良いハサミで鮮やかに切られ、はらはらと松葉のように重なって積もる髪。その髪と髪が織りなす網目の間に閉じ込められた儚い香りを漏らさず吸い込み、そして捨てる。隣の席にわざと聞こえるような声で男の下手なセックスを揶揄することはできても、切った髪の匂いを嗅ぐ、行きずりの性交のような安堵感を、冗談めかして告白することはできなかった。



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このエントリーは、

ルマガ 山本山本佳宏『二十一世紀の未読』

本日配信分の一部を抜粋したものです。

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