(この作品を読むのに必要な時間:約240)

 

 薄褐色のハトロン紙と柿色の色紙を丁寧に重ねた包装を剥がすと、卯の花色のハンドメイドの石鹸が穏やかな四角さを保って現れた。紫がかったサルビアブルーの筋がゆったりとマーブル模様を描いている。グレープフルーツの香りがなお一層、夏を吹き抜ける風を呼んだ。



 価値観も趣味も性格も仕事のやり方も男性との接し方も、何から何まで私とは違うひとつ年下の後輩が会社を辞めた。会話どころか顔も見たくないほどに嫌いだった。フロアの遠くから頭の悪そうな彼女の笑い声が聞こえてくるだけで私はトイレに逃げるかイヤホンで耳を塞いだ。

 転職する。私が身悶えするほど憧れ熱望し周到な準備をして就職活動に臨んだにも関わらず、書類審査だけであっけなく終わりを告げた、その会社に彼女は転職する。私は独り、血が滲むまで髪を掻き毟った。私にはやりたいことなど何もないのだ。就職こそがゴールで、その会社こそがゴールだった。這々の体でフルマラソンのゴール地点にようやく辿り着いたら誰もおらず仕方がないので帰宅してテレビを付けたら、さっき私が居た場所で大嫌いな女が観衆に祝福されながらゴールテープを切る様子が生中継されている。白昼夢。私はゴールするはずの距離を遥かに越えて、ただ坂の下る方向へと重力に任せて足を運び続ける。

 五月の休日の鮮烈な朝の光を浴びて包装紙はひらひらと透けて揺れた。私は時間も忘れてそれを見つめた。あの女の最終出勤日、彼女はデスクの間を花魁のように練り歩きながら、オーガニックコスメの店を開いている友人に作ってもらったの、と石鹸を配る。

 

「Kさん、短い間だったけど今まで本当にありがとう」

「ううんこちらこそ。向こうでも頑張ってね」

「Kさんとはさー、色々あったけど、今の私があるのは多分Kさんのおかげだよ」

「えー全然全然。そんなことないよ。色々迷惑かけてごめんね」

「でも全部良い思い出だよ。Kさんがいなかったら、本当にやりたいことをやらなきゃって思えてなかったと思う」

「へーそうなんだ。だったら私も少しは役に立てたかのかもね」

「落ち着いたらご飯行きましょうよ、よく考えたらKさんと一緒にゴハン食べたことない気がするから」

「うん是非是非ー。連絡するね」

 

 洗濯機が音を立てる。幼い頃、洗濯機の蓋を開くのが好きだった。堆く膨れ上がった灰白色の泡が渦の中心で小刻みに震える様子を魔法として眺めていた。コンビニのゴミ箱にでも投げ捨てて帰るつもりだった石鹸は、駅への道で上司に遭遇して行き場を失ったまま家まで持ち帰られ今ここにある。私は洗面台の蛇口を勢い良く開いた。

 湯に濡れた手の中で石鹸はゆっくりと溶け始める。微かな泡と共にマーブルが滲んで流れだす。私は無心で石鹸を撫で回す。優しく。湯は石鹸に激しく打ち付けられて滴を散らす。萌葱色のパジャマの袖はしとどに濡れている。バカラのクリスタルの天使も濡れている。誰にもらった物だっけ。石鹸はみるみるうちに角を失っていく。小さく、小さく、溶けて、流れて、元あったものはもう、どこにもない。

 いつの間にか石鹸が半分ほどの大きさになって私は、両手いっぱいの泡に顔を近づけた。

 ぐるぐる、ぐるぐる、顔にマーブル模様を描くように、ぐるぐる、ぐるぐる、私をかき混ぜるように、ぐるぐる、ぐるぐる、頬も、眉も、目も鼻も口も全部、泡の渦に溶け出して、ぐるぐる、ぐるぐる、顔も頭も腕も胸も尻も足も、私の全てが渦の真ん中で色になって溶け出して、音も立てずに震えている。整然と並んだ色とりどりの鮮やかな絵の具を全て混ぜたら、どれほどに美しいものが生まれるかとチューブを全部水にぶちまけ筆でぐるぐるとかき混ぜて、現れたのは一切の透過を許さない糞水だった。幼い私は黙って水を捨てた。私は私が混ざるところをもう見たくない。ぐるぐる、ぐるぐる、止まらない。溶けて流れて渦を描き、泡が混ざった私を隠してくれた。湯が熱烈とした非情さで乱暴に私を流し去ってもう、私はどこにもない。そこに残ったのは小さな石鹸だけだ。




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このエントリーは、

ルマガ 山本山本佳宏『二十一世紀の未読』

本日配信分の一部を抜粋したものです。

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