薄く高くなった雲に小さな小さな丸い穴が開いて、半分の月が顔を出しました。

 うねりながら果てしなく続く大草原に小高い丘があって、枝が茸のように広く横に張った大きなクスノキがぽつんと、立っています。永遠に続くかと思われた長く強い雨がようやく止んで、雨粒が落ちているのは樹の下だけになりました。

 クスノキが落とした最後のひとしずくがまぶたに当たって、トキは目を覚ましました。雨宿りをしているうちに眠ってしまっていたのです。



 顔をしかめて身体をゆるゆると伸ばしながらトキは立ち上がりました。月明かりはあまりに弱く、数十メートル先で闇に飲み込まれて見えなくなる草原の向こう側からは、耳が痺れるほどの静寂が飛んできました。トキには、雨が地に打ち付ける音と同じくらい、うるさく感じたのです。彼はもう少し、出来ることならずっと、この大樹の下で休んでいたいと思いましたが、上着の濡れた土を軽く払うと、黒々とした幹をすっと撫でてクスノキに別れを告げました。

 

 当てもなく草原を、傾斜に沿ってトキは歩きました。踝を隠す辺りで揺れていた青草は、腰の高さほどになっていました。知らぬうちに遠くまで歩いてきたのか、それとも今突然、草が伸びたのか、それさえも分からなないほど辺りは暗くなっていました。トキは空を見上げましたが、クスノキの葉の間から光をこぼしていたあの月も、星も見当たりません。闇夜を照らす街灯も、もちろんありません。たださやさやと、草がそよぐ音がするだけです。ずいぶん長い時間歩いたはずでした。もしかすると、夜ではないのかもしれません。

 

 トキは三本の道の分岐に行き当たりました。草原を無理やりかき分けて出来たような細い道です。人ひとりが何とか通ることのできるくらいの地面には白っぽい砂利がごつごつと転がっていて、いくら目を凝らしてもその先は、どれもたちまち闇に溶け、どこに続いているのかを見通すことができません。ここまで歩いてきたのと同じように、道を選ばず草の中を進むこともきっとできるでしょう。しかしトキはまだ三本の道を前にして、動こうとはしません。

 右の道からは、陽気に笑い騒ぎ合う声がひっきりなしに聞こえてきました。しかし、その声の主の姿を見ることはできません。

 左の道からは、人のすすり泣く声が地を這う波のように大きくなり小さくなって流れてきました。時折低く、恨みや悲しみのこもった嘆きが混じりますが、何を言っているのかまでは分かりません。

 真ん中の道からは何も音が聞こえませんでした。その代わり暗闇の中にぼうっと、人がたむろしているような輪郭が遠くに浮かんでいます。行き交うでもなく、じっとしているわけでもなく、いくつかの影は小さく動いていました。

 

 トキは相変わらず同じ場所に立って、親指と人差し指をちりちりと擦り合わせていました。行き先を思い迷ってきょろきょろと首を動かす様子はありませんでしたが、彼の目には、何か別のことへの不安が浮かんでいました。

 しばらくうつむいて地面を見つめていたトキは、ようやく一歩を、真ん中の道に向かって踏み出しました。何も聞こえないけれども人の姿が遠くに見える道。ゆっくりと、自信なさげにトキは数歩進んで、そして突き当たりました。

 トキの顔にまとわりついて前進を止めた物は、一枚の紙でした。草原に沿ってどこまでも遠く続く一枚の薄い紙。トキが見ていた三本の道は、その紙に書かれた絵にすぎませんでした。鼻をさすりながら少し後ずさりして見ると、遠くの人影はやっぱりゆらゆらと動いているのです。しかしひとたび近づくと、伸ばした手はたちまち張られた紙に触れ、道も人影も絵であることに気づかされるのでした。

 トキは紙に沿って横に歩き、右や左の道の絵に耳を当ててみました。笑い声や泣き声は、確かに紙の向こうから漂ってきているようです。彼は再び数歩下がって、身体をひねって後ろを振り返りました。背後にはいつの間にかもっと深い闇が下りていて、もはやそこが草原なのかどうかも分からないほどでした。

 広げられた絵巻物のようにどこまでも伸びるその紙は、薄く薄く、けれども決して向こう側を透けさせることも風にひらひらと揺れることもなく、トキの前に立ちはだかっています。まるで舞台の奥の方に置かれた風景画の前で、滑稽な一人芝居をしているような気分でした。

 



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このエントリーは、

ルマガ 山本山本佳宏『二十一世紀の未読』

本日配信分の一部を抜粋したものです。

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