あまりにも筆が進まない、メルマガはまあ別にいいとして筆が進まない、筆が進まないなんていう理由で僕の蝋燭が源平討魔伝のごとく着実に減っていくのを見るのは本当に悲しくなります。あと何本残ってるのかしら。

 

そんな悲しさや焦りは冷静な判断能力を奪ってしまいますもので、僕はTwitterに何かを頼ろうとしてしまいます。

「何かメルマガのお題募集」

 

これまでもメルマガでお答えしてきたこと、さらにはもっともっと気が遠くなるほど昔に正解を見つけ、気が遠くなるほど繰り返し答え、全く伝わらなかったことも、含まれているかもしれません。それ前見た、というものにつきましては何卒ご容赦ください。

今の僕はお悩み相談室でも、学校の先生でも、番組スタッフでもありませんので、かつてに比べればなお一層、媚びは減少してしまっておりますので、お気に障った方に対してはお詫びしますが、訂正はしません。

 

 

ともあれ、Twitterでのワガママなお題募集にお付き合い頂きまして誠にありがとうございました。できる限りお答えしてまいりたいと思います。

 




 

*富士山について何か思うところを(もしございましたら)

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何の思い入れもありません。明日なくなっても何とも思わない。世界遺産だろうが取り消されようが別にどっちでもいい。

 

僕にとって何のシンボルでもないので、例えば上京の新幹線の車窓から富士山を見てもう後戻りはできないことをようやく理解した、みたいなアホみたいな描写は僕のハードディスクには一切刻まれていません残念ながら。

昔、知人が、「来週富士山に登ることにした! 登ろうよ!」と突然言い出して、理由を聞くと、「だって日本一高い山だよ? 今、若いうちに登っとかないと一生登らないかもしれないじゃん。富士山に登ったっていう経験はしておきたい!」とかアゲアゲで叫んでいらっしゃって、僕はへーそうですかとお答えしたんですけれども、思い出と言えばその程度かな。その程度かい。

 

冷めてる、とかテンション低いとか、これぐらい突拍子もないことを思いついて時にはグイグイ引っ張ってくれるJ Soul Brothersじゃなきゃダメよねとか、言われがちです。富士山に登らない分、その時間を使って僕がやっていることを見た上でそんなのダメと言われるならしょうがないですけど、興味を持つ対象がアウトドアなのかインドアなのか、明朗快活なのか沈思黙考なのかは個人の好みでしょう。興味を持たないものに時間を使わないことを責められるいわれはない。登山しない間、何もしていないと思ったら大間違いであると思ってイライラした記憶はあります。富士山何も関係ないですね。

 

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*「慣れ」について。(今、これが私の敵なんですっ(>_<))

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人間は、慣れる動物です。

すべての刺激に慣れる。同じようには反応できなくなる。

経験則で対応する。手くせでこなす。

そうして、次から次に目の前で生まれている奇跡を、平気で見逃していきます。

未来への憧れだけは一人前で、目の前の奇跡は、「探したり反応したりするのしんどいから起きてないことにする」。

 

“死ぬまでドキドキしていたいんだ。”

その願望の真意は、本質は、どこにあるのか。

 

という話は、以前にも書きました。

ほとんどの人は、「起きてほしいことが起こること」を望みます。

その事象が、良い事か悪い事は問いません。自分にとって都合の良い『悪い事』を、僕らは時に、むしろ望んで起きてほしいと願う。

 

都合の悪い事は、起こっているのに起こっていないことにして目を背ける。頑張ってキョロキョロするのはめんどくさいから気づかないふりをする。それが慣れの本質です。

期待の範疇にある『未来』しか、未来とは認めない。という姿勢は、すなわち、「未来など何も見ていない」ということとイコールですよね。それが、慣れです。

 

 

(*メルマガ 2012/07/09)

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奇跡は毎日毎時間毎分毎秒、ものすごい勢いで目の前で起こっている。

「これは、奇跡だ」

そう言って、指をさせる人。

「え、なんかあった?」

気付かない人。

「何か指さすの恥ずかしい…」

モジモジしてる人。

「奇跡なんか起こるわけない」

目を、閉じている人。

 

奇跡は、出会いそのものでもあります。

「出会いとか全然ないしー」

「俺だってチャンスさえあれば成功するんだけどなー」

 

だとすれば、そう言って突っ立っている、あなたの前をビュンビュン通り過ぎていく、

このたくさんの「出会い」は、一体何なんでしょう。

 

奇跡は、あなたの前で、いつでも起こっています。

出会いは、あなたの前を、いつでも通っています。

 

今日も昨日と同じ、何もない1日だった、のではなく、

理由はともかく、自分は奇跡を見過ごしてしまった。

理由はともかく、自分は出会いに手を伸ばさなかった。

 

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日々、僕たちは衰え続けます。

老いを受け入れるのは、たいていの人にとって苦痛です。目も良く見えないし味も分からない。身体のあちこちがいつも痛む。思うように手足が動かない。いつの間にか糞便を漏らしている。さっきやっていたことを思い出せない。少しずつ少しずつ、肉体は滅んでいきます。自分の未来がごくわずかであることも、徐々に悟っていく。

 

しかし老いと慣れは別です。

慣れは、鈍っているからではありません。麻痺しているからでもありません。それらは慣れの理由ではありません。





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このエントリーは、

ルマガ 山本山本佳宏『二十一世紀の未読』

本日配信分の一部を抜粋したものです。

全文は是非、メルマガでお読みください。


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