ふぁぼる

 

ふぁぼる(動詞) 意味:お気に入りに追加すること

 

Twitterにおいて、特定の”つぶやき”の右側にある☆(星のマーク)をクリックして、

自らの”お気に入り”のカテゴリーに追加することを言う。

英語のfavorite(お気に入り)を動詞化した言葉で、favるとも書く。

 

日本語は何でも動詞化しちゃうんですか。『しちゃう』とか使うなよキモチ悪い。オカマか。

日本語は何でも動詞化しちゃうんですかとオカマに問われたらアタシの場合はむしろ逆で動詞化こそ日本語の醍醐味でありゴールであり新しい言葉の一般化普遍化を意味しちゃうってことなの。CDが売れなくなった理由は結局シディるって誰も言わなかったからなの。グーグルが生活に定着したのはググるって言うようになった瞬間なの。あきらめないで!

 

Twitterがしっかりと一般化したのはツイるとかふぁぼるとか言いやすかったという面ととりあえず「○○る」で流行らせようと頑張った人の思惑が正しかったのと両面あるんだろうと思うけどもまだやってますよTwitter。この前何かの企画会議でウェブ周りを担当するオッサンが延々「トゥイッタが」「トゥイッタを利用して」って言っててお前はラッパーかとつっこむのをずっと我慢してたら会議が終わってしまった面があるの。まだやってますよトゥイッタ。

 

僕みたいなエラのあたりのヒゲの剃り残し5ミリ程度の存在であっても「お前はこういうヤツだろう」「お前がはこういう事を言うヤツだろう」というある種の期待があって僕はそれに沿ってヒゲを剃って答えたりもしますし演じたりもする。僕は「素の自分」「本当の自分」っていう言葉は嫌いじゃないけど使われ方が大嫌いで、好きな自分も嫌いな自分も演じてる自分も「こんなのはホントの私じゃない」とか言ってる自分も全部ひっくるめたモノが本当の自分であり素の自分なのであって自分の一部を拒絶したり切り落としたりする必要はないと思ってるわ。あきらめないで!何で語尾を女にしたら真矢みきbotが顔を出すのか。

 

 

本来の僕は口汚くて陰気な鶏のササミなんですけども番組で各種のお仕事をするうちにいつの間にか「何か名言ぽいこと言いそうなキャラ」を望まれていて僕もそれをKARAとして演じ続けてる意識があった。

 

僕にとって「ふぁぼられ」とは、僕が『僕ってこういうこと言いそうでしょ』と思って書いて皆様が『そうそう、お前ってこういうこと言うヤツだよねだよね』っていう意思疎通の証しだと思ってて僕のTwitter上( @y_a_n_m_o )におけるふぁぼられ上位を転記。自意識過剰の誹りという代償を払って例証。




★”「あのバンドは2枚目のアルバムまで良かった」「あいつが良かったのは25歳ぐらいまで。あとはクソ」と言う人は同時に、あなたが良かったのは何歳までなのかと問われている。自分だけは変わらないと思い込みがちなゆえに。自分は受信者であると思い込みがちなゆえに。” 2011.1.24 (176ふぁぼ)

 

これが1位すかー。私の好きなアーティストと何か仲良さそうなオッサンじゃんフォローしとくか、的な入口の方の割合は僕の場合多いので、こういう音楽関係のツイートには反応してくれるのかもしれませんが。大好きなアーティストも大好きなタレントもそして自分も、全ての瞬間ものすごい勢いで変化してるし動いてるし流されてるんだけど自分は定点観測をしていると思いがちだなと。手に手を取り合ってたたずむ二人も当然、ものすごいスピードで変化してる。同じスピードと方向だからお互いに止まってるように見えるだけ。互いの変化のスピードが変われば手は離れる。ええ話やなー。こういうこと言いそうなんでしょうね僕はきっと。

 

 

★”【速報】 El Shaddai(エルシャダイ)、ついに発売日決定!!! 2011年4月28日(木)!!! もちろんネフィリムも出演してます!!! http://elshaddai.jp #ElShaddai” 2011.1.12 (100ふぁぼ)

 

あ、いきなり2位にお知らせ来た。ギャングスター・プランナー事務局長として関わっているゲームソフト『El Shadda』i(エルシャダイ)は4/28発売でございます。これは単に、Twitter上でのお知らせを1番早くしたのがたまたま僕だったというだけの。まあ特に。今回の趣旨とはあんまし。

 

 

★”「人のため」「誰かのため」とか言い始めたら、そりゃ行きつく先は全て「自分のため」なんですよ。自分の快楽のため、自分の幸福のためにしか、人間は行動しない。その上で、『自分の本当の幸福は、周りの人たちの幸福なしでは成立しない』という点に気づいて、ようやく何かが始まるわけで。” 2011.2.17 (77ふぁぼ)

 

何かコレ書いたときに「それは誤った解釈です」という返信が来たので「なるほどー!」って返したらそれっきりでした。何なのかしら。わりと言葉通りの意味なのであんまり付け足すこともないんですけども、そう言えば、箭内道彦率いる広告忍者部隊、ロックンロール食堂の社是は『世のため、人のため』でしたことを今思い出しました。人間が一人で生きていけるような生き物であれば単為生殖で増えとるはずなんですよ。ええ話っぽいなー。

 

 

★”「あなたが好きです」が最悪な言葉に聞こえたとしたら、それは言葉のせいじゃありません。言った人のせいです。言葉に良いも悪いもない。言葉は魂を乗せる単なる道具です。言葉に善悪のレッテルを貼って人間は逃げきろうったってそうはいかんでしょ。” 2011.2.8 (56ふぁぼ)

 

これは確か、永六輔さんが『全国こども電話相談室』において、好きな人に告白する言葉を教えてと小6女子に質問された時のお答えがTwitter上ですごい出回ってて礼讃の嵐だったんで、いやそれは違うっしょという意味でツイートしたヤツですね。不遜ながら要約引用させていただきますと永先生は、言葉は一番大切であるという前提の上で、同じ感動を同じ時点で受け止めるのが一番効果があると。そういう環境が一番大事だと。隣でいい言葉を使ってるほうがドキンとすると。そういう素敵な事をおっしゃった上で、『「あなたが好きです」というのは最悪な言葉です』とおっしゃったと。で僕は、いやそれは違うと。電話相談室ってどういう仕組みでオンエアされてるのかは知らないのでそれ以上のことは何とも言えませんが、言葉本来の使い方は教育で学べばいいと思うけど、僕は「あなたが好きです」が最高な言葉になる場面もたくさん知ってる。「あなたが大嫌い」が大好きだって意味になることも知ってる。言葉の技を追い求めるプロばっかりじゃないです世の中は。そして全ての人は魂においてプロだと思います。ええ話やなー

 

 

★”「生きる事の意味って何ですか?」と子供たちに何度聞かれたことだろうか。僕の今日にとって『生きている意味』は必要ない。なくてもダラダラ生きるだろう。「生きる事の意味」とは、今日生きのびた事。今日死ななかった事、まさにその事だけだと思う。今日死ななかった事に、もっと盛大な拍手を。” 2010.12.1 (37ふぁぼ)

 

現状肯定型のツイートはTwitter上に関わらず特に人気ですだよね。ツイートの通り僕は子供たちにそういうことばっかり聞かれる仕事を5年半ぐらいやってて、こういう時の大人はすぐに未来の話をします。そしてそれは逃げです。子供たちはそんな経験論が欲しくて集まってるわけじゃない。「今この瞬間ウンコみたいにツラいのを解決したい」んであって、10年後楽しくなるからとか、そんなごまかしは聞き飽きてるんです。明日学校に行けばまた便器に顔突っ込まれてケツ蹴られるから今死にたいんです。そしてそれを根本から解決できるのは親と教師しかない。僕には今日の処方箋しか出せない。そういうツイートです。ええ話でしょ。

 

 

★”誰も他人のキモチなんて分からない。分かってるって言う人はウソをついてる。その上で僕はあなたに言う、『頑張れ』と。人に言われたコトを、何かをしない言い訳にしちゃったら、損するのは自分です。全てをモチベーションに。どんな奇跡も、あなたのために起こってます。受験生、頑張れ。” 2011.1.30 (34ふぁぼ)

 

前述のような理由で中高生のフォロワーが多いための受験応援ツイート人気となっておりますが『言葉そのものに良いも悪いもない』ってことの実践版でもあります。頑張れっつーのは。僕もテスト出来たし絶対受かると思ってた大学にスコーンと落ちてショックで1週間丸々何もできなかったりしたので、一浪しようが二浪しようが人生に全く何の影響もないってことをその時に言われても聞く耳持てなかったと思うので。

 

ここに書かれたことはウソなのかと問われればウソではない。ホントは思ってないのかと問われればホントに思ってる。ただかつては人から望まれている自分をエンジェル的なことというか演じる的なことを、「これはホントの僕じゃない」とか思ってたんだけどそれは違って全部僕だったんだろうなと。人から思われてる僕のカタチも当然僕のカタチであると。そういう意味でこれらのふぁぼられた順位を眺めれば大雑把に僕が分かるというのは間違いないというか、望まれたカタチを演じるのは別にイヤじゃない。




ムードメーカー

 

何度か言及してるけども放送作家の高須光聖さんがラジオ風とロックにゲストでいらっしゃった時に言ってて「やっとちゃんと言ってくれる人出てきたわー」と思ったんだけども、空気は読んで当たり前じゃないですかと。KYとか言われてイジメられるからそういう事は言っちゃいけませんというのはこの話の本筋からはズレてると思うんですよ。空気を読むというのは迎合するのとは違う。空気を読んで空気を読まないヤツの役割をあえて演じることだってたびたびある。読むというより空気を作ってゆこうぞ、空気の一部となってゆこうぞ的な感覚なのかもしれない。

 

Are you Mood Maker?

 

英語としておかしいとかアメリカではそんなふうに言わないというクソどうでもいいことを言う人には黙って八百長メールを送信しておくとして、昨年の春ごろでしたか、箭内さんと僕でハマってた言葉がコレです「アーユームードメーカー?」全ての人が今ムードをメイクしているかどうか自らにそして互いに問おうと。失敗ばっかしててもいい。その場のムードを「…チッ」にしてるのか「お前マジでダメだなー()」にしてるのか。自分はこの場のムードとは関係ないと思ってないか。『ムードメーカー検定試験』を近日必ず作成致しますのでみなさん是非チャレンジしてください。『ムメ検3級』みたいなことで。

 

 

 

望まれたカタチ

 

一方で、空気読め、と言われて読んでみまして読むの失敗しましてすごく…サムいです……みたいな事例は日本において立ち小便と同じ数だけ毎年発生している。

 

最近すごく思うのは、「望まれたカタチ」になるのが得意な人は結構いるんだけど、「それ、誰に望まれたん?」

 

仕事上で小学生ぐらいの子供のオーディションをしたり、時には演出したりすることもあるんだけどもってことはすなわち、劇団とか子役のプロダクションが送りこんできた子供たちなんだけども、2人に1人は明らかに、『ある特定の子供像を演じている』。

ドラマとかで時々、コレはないだろと思う子役の演技を見たことがある人もいると思う。そして小学校で国語の教科書を朗読した時に教師に褒められそうな喋り方をする。いやそれが出来ない子だっているし出来ることは別に全然いいし僕が雑談に持ち込んでダラダラしゃべり始めると「あ、いいんだ別に」っていう顔をしてすごく安心した顔をするんだけどでも癖なのか訓練の賜物なのか朗読セリフぶん回しな喋り方から逃れられない子も結構な割合でいて、残念だけど僕の担当の時にはバンバン落ちて行く。明朗快活もいいと思う。ただ明朗快活は数ある個性のうちの1つというだけだと思ってるので、僕はボソボソしゃべりたい時にはボソボソしゃべってほしいし、普段の笑い声が豚っ鼻であればそう笑って欲しい。

子供が『下手』であることはしょーがない。だって子供だもん。スキルを望むことには生物的に限界がある。棒だろうが大根だろうが永遠のえなりかずきだろうが何の問題もない。問題は、「その子供像は、誰にどのように望まれた結果のカタチなのか」。

 

テレビに出てるギャル系女子高生は、より確実に、「望まれたカタチ」をなぞっている。

フジテレビの日曜早朝に、『新・週刊フジテレビ批評』っていう放送局の自己番組検証番組をやってるんだけどなぜか『ギャルテレビ批評』という超ベタなギャルメイクの高校生3人ぐらいが気になる番組についてダベるクッション的なミニコーナーがあるんだけど、基礎教養がなくて口汚くて遠慮がなくて社会情勢には無関心だがオッサンにはない鋭い視点も持ってたりするぜ、といういわゆる『ある特定のギャル像』を丁寧に演じている。いまだに、ですよ。かつてのギャルブームが鎮火してだいぶたつんじゃないかという2011年の日本で。まだやるのかと衝撃を受けまして。憶測ですけどもこういう超高額予算じゃないであろうスタッフも少ないであろう番組で、あのコーナーに明確な台本と演出が入ってる可能性はわりと低い。「テーマはコレで、あとは自由にしゃべってくれれば適当に編集するんでー」みたいな感じで自発的にやってる可能性のほうが高い。にもかかわらずギャルたちはあれである。そこは問題ではない。問題は、「そのギャル像は、誰に望まれたカタチなのか」。

 

 

僕みたいなインスタント味噌汁の袋からちょっとはみ出して指についた味噌カス程度の存在であっても実名でTwitterとかやってる限りは僕が僕として見られることへの意識は当然常にあるというか「どういうふうに見られるか」でしかやってない。「人格とは他人から寄せられた意識の集合体に過ぎない」とどこかで誰かが言ってたように僕らは自分の輪郭すら自分でなぞることができない。

 

子役は親と劇団の先生に望まれたカタチを作ってるんだろう。ギャルはテレビのオッサンに望まれたカタチを作ってるんだろう。

僕らはとっくに知ってるはずだ。同じカタチをした人なんかいないことを。なのになぜある特定のカタチを不特定多数に望むのかと言えば、めんどくさいからでしかない。

 

他人の輪郭をしっかりとなぞる作業は途方もない労力を使いしかも終わることがない。たった1人の人でさえ完璧になぞりきることはできない。めんどくさい。型にハメる。類型化する。キャラづけする。そしてその時、その人のところに持って行く型はもちろん、自分にとって都合の良いカタチをしている。僕だって自分にとって不都合なカタチを他人にあてがったりするわけない。

 

演じる事によって行ける場所はある。流される事でしか到達できない場所はある。他人に望まれるカタチでしか判明しない自分の輪郭はある。

じゃあどうすればいいのか、ギャル女子高生みたいになればいいのかあれが正しいのかっていうと、そうではない。

できるだけ、1人でも多くの人の「自分に望むカタチ」を加えていけばいいんだと思ってます。

1人のオッサンに望まれるカタチではなく、100人の人が自分に望むカタチ。1万人に望まれるカタチ。1人でも多く。自分をどこかへ流してくれる人を。自分の輪郭をなぞってくれる人を。増やしてみてはいかがでしょうか。たくさんの人に出会う大切さっつーのは、そういうことなんだと思う。この人はこういう人間なんだな、という全然違う、時には利己的なカタチを360°集められた時、僕らはセル(完全体)になれる。もしくはチャオズ(道連れ自爆)。チャオズかー。