東京人大好き地震ネタ

 

被災者という言葉はとてもとてもとてとてとても都合のいい免罪符でルターをビンタして奪い返して高々と天に掲げながら僕は言う「地震はネタでしかない」と。ルター涙目。帽子斜めなっとるがな。

 

僕のシングルロールのトイレットペーパーのごとくペラッペラなウンコ拭く価値ほどしかない大学生活においての記憶と言えばサークルで玉を蹴りあげていたことと地震のことぐらいしかなくて阪神淡路大震災。上京して薄暗い顔でチマチマ隅っこで仕事してて話しかけづらい僕が、大学は神戸でしたと答えたときの東京の皆様の顔がツルツルテカテカ輝いたことを僕は忘れない。ようやく食い付けるネタを見つけたと思ってツルテカしたことを僕は忘れない。恨み節では全くなくて僕もようやく何かしらのネタで東京の大人たちを喜ばせ組できるんだと思ってフェラチオ巧くなるために頑張れる私。的な。すごく誇らしいキモチになった。

誰もが僕に「地震のとき神戸にいたんでしょ?どうだった?」と聞いてきて僕は内心嬉々としつつも淡々とした感じを装いつつもそのたびにあの日のコトを話した。鉄板だった。みんな僕が大学時代に考えたどんな面白ネタよりも震災エピソードが楽しそうだった。やっぱ人間はこうじゃないとな、とむしろウンウンとうなずいた。

一言で言えばたくさん死んで知った顔も死んだ。大学のグラウンドは自衛隊の駐屯地みたいになった。でも本当に近しい人は死ななかった。好きだった女の子も死ななかった。僕にとってはそれで十分で他人の事なんか考える余裕もなかったし時には当事者ヅラ、時には第三者ヅラ、時には露骨な被害者ヅラをした。

また今年も1月17日に合わせてネタを披露する機会があって、相変わらず東京のヤツは地震ネタ好きだなあと思い、だったらばと、記憶新しい頃に書いた情緒たっぷりの気持ち悪い地震関連テキストが先日発掘されました(゚震゚;)ので載せてみます。ネットに載せるように書いたので、情緒に加えて表現も気持ち悪いですが。その気持ち悪さの中に地震に対する制御できない何らかの想いがあったんだろうなと。

 




1995/1/17

 

特別な体験ではありません。

現に、あの震災だけでも、何百万人という人が体験してるわけですから。

 

でも、体験した人にしか、分かりません。

あの怖さは、体験した人にしか、分かりません。

 

新年を迎え、成人式の季節。

着慣れないスーツを着て久々に小学校時代の友人と軽く挨拶し、

地元で大騒ぎし。

 

次の日、ある女の子と、久しぶりに会って、メシを食いました。

別に、何か意図があってこの日にしたわけじゃなかったんだけど、

とにかくその日、メシを食いました。

その子は、まだ帰りたくなさそうでしたが、

僕は、明日朝イチの授業出ないと単位落とすから、といって、

そのまま帰りました。

 

それは本当です。英語の授業をサボリまくって、

次休んだら単位やらないと、教授に脅されていたからです。

2限なんて、何ヶ月ぶりだろう。10時40分なんかに、大学に行けるかな。早すぎる。

久しぶりに、12時前にさっさと寝ることにしました。

 

そして、日付は変わり、

 

1995年1月17日火曜日。

 

熟睡していた僕は、なぜか突然目が覚めました。

まだ半分寝起きで、何が起こっているのか、最初は良くわかりませんでした。

 

ベッドの上で、自分の体がボンボンと何度も跳ね上がっていました。

 

下から上に、激しく突き上げてくる衝撃。

まだ起きてはいない脳の中に、『死ぬ』という本能からの危険信号が走りました。

 

叫びました。声の限り叫びました。

 

本能で感じる恐怖でした。

 

怖かった。

 

力の限り叫んだその声も、激しい何かの音にかき消され、ほとんど自分の耳には入ってきません。

体の跳ね上がりが少し小さくなり、僕は瞬間的に、窓からベランダの外を見ました。

空が真っ白に、ピカッ、ピカッと、ストロボのように、激しく何度も光っていました。

 

音と、僕を突き上げた衝撃が、収まりました。

一転して、耳が痛いほどの静寂。

 

何だったんだろう。

光ってたな。

雷だなきっと。

雷が、近くに落ちたんだ。

だから家が揺れたんだ。

怖いな雷って。

そういえば、明日は英語だった。

もう少し寝れるかな。

寝よ。

 

 

再び布団をかぶり、目を閉じました。

10秒後、僕の部屋に、父が飛び込んできました。

「おい!起きろ!何してんねん!起きろ!」

うっせーなー…

雷ごときでギャーギャー騒いでんじゃねーよ。

 

「起きろ!地震や地震!」

 

地震?

何が?

今の、地震?

 

全く状況が飲み込めません。

あまりにも父がうるさいので、ベッドを出ました。

 

部屋の床に、本棚ととタンスと机の上にあったもの全部が、

全部ぶちまけられていました。

足の踏み場がありません。

 

何これ?

地震?

今の、地震?

 

 

 

1階へ降りました。

暗闇です。

懐中電灯なんて気の利いたもの、用意しているわけがありません。

 

とりあえず、電気とガスと水。全て止まっていることは確認しました。

父が携帯ラジオと明かりになるものを求めて、家宅捜索に入りました。

 

僕は真っ暗な1階のリビングの、全く暖かくないコタツに座って、

ボーっとしています。

母は、2階のベッドの上で泣いています。

さっきまでは半狂乱でしたが、ようやく落ち着いたようです。

揺れている間、隣に寝ていた父の腕を、

ものすごい力で掴んでいたらしく、

父の二の腕は血だらけでした。

火事場のクソ力。震災による負傷。

 

妹は、思ったより落ち着いていました。

ベッドの枕の上辺りに置いてあったラジカセが、頭を直撃した模様ですが、

ラジカセだったため、たんこぶ程度で済んでいました。

デカイコンポだったら死んでたかもしれませんね。

 

でも、家族はみんな、生きていました。

 

父が、どこからか携帯ラジオを引っ張り出してきました。

聞こえづらいしイヤホンでしか聞けないし映像ないし、

ホントにイライラしました、ラジオ。使えねー。

でも情報がコレしかないので仕方ありません。

地震情報らしきことは言っていますが、

多分メディアも確実な情報がなかったんでしょう。

1次情報だけを繰り返し繰り返し。うんざり。

 

でも1個だけ、ハッとした情報がありました。

『震源は淡路島北部』近っ!!!

 

僕は、地震といえば関東だと思っていたので、

僕の家がこれだけ揺れるって事は、関東のどっかは、

すげーことになってるんだろうなーと、何となく思っていました。

 

関西に地震来た。ウソみたい。

 

1時間ほどで、ガスが復旧しました。

やった。コレで暖かくなる。

 

僕はガスのニオイがすごく苦手で、

ガスファンヒーターも普段使いたくなかったんですが、

このときはそんなこと言ってられません。

僕たちはバカなので、ガス漏れしてたらどうするんだとか考えもせず、

ファンヒーターのスイッチをONにして、どこかから父が探してきたタバコに火を付け、

グッチャグチャのリビングで、またロクな情報を言わないラジオをぼんやりと聴いていました。

 

そのまた数時間後。電気復旧。早い!ナイス!

電気って、テンション上がりますね。

 

わーーーーーーーーー家の中きったねーーーーーーーーーーー。

でも片付ける気には全然なりません。

 

テレビテレビ。これで何とか、まっとうな情報にありつける。

 

何か行動しろよと思うでしょう。

でも、何をしたらいいのかも、よく分からなかったので。

 

 

最初の30分ほどは、同じ情報の繰り返しでした。

速報で、『●●地区で民家が3軒倒壊』みたいなのがチョコチョコ入ってきて、

「あららー、えらいことですわなー」

…呑気なもんです。

「英語の授業行かんでもいいかな?地震で家壊れましたとか言ったら大丈夫ちゃう?」

みたいな。

 

でも、そんな呑気な時間は、長くは続かなくて。

「おっ!また速報きた」

 

『●●川付近で土砂崩れ。200人以上が生き埋め』

 

ビリーっ!!としました。

200人生き埋め?

多くない?

結構死んでんじゃない?

結構被害デカくない?

 

ビリーっ!!は、ここから疾風怒濤でやってきます。

死人と行方不明と生き埋めの数が、アホみたいな速さで入ってくる速報で

ガンガンに膨れ上がっていきます。

 

何これ?

ひょっとして、大災害?

 

ニュースでヘリコプター映像が飛び込んできました。

この映像は結構有名なので、ドキュメンタリーとかで見たことがある人も多いでしょう。

神戸の街が、死んでいました。

 

灰色と茶色しか見えない街の至るところから、小さな煙がいっぱい上がっていました。

 

神戸終わった。

神戸死んだ。

ねじ切れた阪神高速が映し出されました。

神戸終わった。

つぶれた駅と斜めに崩れた高層ビルが映し出されました。

神戸死んだ。

 

 

夕方。まだ水だけが来ません。

水がないのは死活問題です。

だからと言ってどうしたらいいのかも分からないので、

とりあえず、近所の小学校に、車で水を汲みに行きました。

小学校って、屋上にタンクあるじゃないですか。

だから、水道止まっても、水出るかなと思って。

 

家を外から眺めても、特に変化はありません。

ヒビはいっぱい入ってるけど、斜めにはなってない。

風呂はタイルが全部割れたけど。

まあ、まだ住めるかな。

 

バケツ3つ持って、校門乗り越えて、校庭の水道の蛇口ひねって…出た!!!!

水って重いね。でもバケツ3つ分なんて、風呂にも入れないね。

飲めるかな、コレ。

 

帰りにコンビニへ。食料確保。

なーーーーんにも置いてないんでやんの。

食えそうなものは、みんな買われてしまって、

スナック菓子がチラホラあるだけ。

もちろん、全部買いましたよ。

 

家族が餓死すんのイヤだもん。

何で他人の分なんか置いとかなきゃいけないの?

 

 

何か、やってること全てが、夢の中です。

非日常的体験を真正面から受け止めることが出来なくて、

フワフワーっと、流れに任せて動いている感じ。

ウチの周りは塀がぶっ壊れたり瓦が落ちたりしてるところがいくつかあるだけで、

街は街の形を保っています。

 

神戸は、死んだけどな。

 

ゆっくりと車を走らせ、家へと向かいます。

そろそろ太陽が落ち、悪夢の1日が終わろうと…

あの夕日、何?

 

デカっ!!!!!!!!

赤っ!!!!!!!!!

 

夕日が、真っ赤です。

オレンジとか、そんな生易しい色じゃない。

血が滴るような、気持ち悪い赤色。

両腕で抱えられるかどうかみたいなデカさで、

メラメラと燃えています。

 

分かってますよ。科学的に説明しようと思えばできることくらい。

でも、あれを見て、僕は本当に、この世の終わりが来たかと思いました。

 

友達とか、好きな子とか、知り合いとか先輩とか、1回も頭に浮かばなかった。

オトンとオカンと、妹が生きてた。自分も生きてた。

明日も死なないようにしないといけない。

今、守れる人だけ守れれば、それでいい。

その事実だけで精一杯でした。

 

夜。

ようやく気持ちが落ち着き、父が職場や知人や親戚に、

電話をかけ始めました。ほとんどつながりませんでしたが。

 

ニュースで、ウチの大学が自衛隊の活動拠点として使われることになったと知りました。

いつも練習していたグラウンドに、いっぱい自衛隊の車が止まっていました。

 

僕は思いついたように、サークルや学部のツレ、マネージャーに電話をかけはじめました。

1本もつながりません。

どうすればいいのか。

どうしようもない。

寝る。

 

 

 

人生とはネタ作り

 

僕の学部では2、3人死に、うち1人は同期で、大学全体では40人ほど死にました。全体では6000人以上が亡くなって、生きている僕はそれでも、地震をネタとしてしゃべってます。ご遺族からすれば被災者の風上にも置けない不謹慎さかもしれないが僕はわりと覚悟持ってやってます。何でも全部ネタにしてやると。タブー中のタブーからまず始めてやると。タブー侵すからには覚悟を持って面白くすると。震災後初めて開かれた学部集会で死んだ学生の名前が発表された瞬間、隣のヤツが我慢できずその場でゲロをシャーシャー吐き始めたのを僕は見ながら、その時すでにその覚悟はあった。コレをネタにするにはどうすればいいか。そういう覚悟でやってます。自分に降りかかる幸も不幸も全てがネタでしかない。だから僕はどちらも望むしどちらも望まない。恥ずかしいことも気に入らないことも、すべてがネタ作りだと思って受け止める。自分に降りかかった不幸によって他人を笑わせる事が出来るかどうか。それが僕の仕事においてのクリエイティブってことのスタンスだと思ってます。ネタにならない幸せなんか要らない。