ここまで、月刊風とロックでの連載コラムをアーカイブとして久しぶりに引っ張り出してまいりました。
まとめての注釈となりますが、これらのコラムは当時の僕の考えていたことで、
今は全く違う考えであることも多数ございます。
日付も書きました通り、最新のものでも、もう2年前のものです。
もちろん、過去であろうと現在であろうと、自分の言ったことには責任を持ちますが、
今も一貫して同じ意見であれというご指摘には残念ながら沿うことはできません。
同時に、ご批判には素直に反省いたしますが、書いたものの訂正は一切いたしません。
なにとぞご了承ください。
なんとなく、『クリエイティブ』という緩やかなテーマで書かれているようにも見受けられますが、
僕個人としては『クリエイティブ』ということにあまり興味がありません。ないんかい。ないんです。
ただ、こういった、連載ものには、無理やりにでもいいのでテーマがないとなかなか続かないので、何らかの縛りを設定したほうが書きやすいのは事実です。
連載をするにあたって、「何かクリエイティブみたいなことについて面白いの書いて」と編集長の箭内さんに言われた気もしますが、それももう忘れてしまいました。
あのような、2000年代カルチャーのひとつの象徴とも言えるようなフリーペーパーに連載することができたことに感謝しています。雑誌そのものの成り立ち、コンセプト、写真、登場人物…全てが時代の空気を牽引するでもなく後追いするでもなく、リアルタイムに並行して走っていた。各界の著名人が連載陣として並ぶ中、僕のような男が数年間に渡ってページを汚してしまい恐縮でありましたし、光栄でもありました。ただ、まあ誰も読んでないページですけど。
僕は伸び切ったベロベロの輪ゴムのようにどうでもいい無名でありますから、すべての露出媒体が単発の真剣勝負なのです。「別にまあ、ここでつまんないって言われても俺本業では人気あるし稼げてるし」みたいな大御所感とは正反対の位置にいるわけです、ここで面白いと思われなかったら文字通りおしまいなのだと。
僕のように人付き合いを全くやらないタイプの人間は、選択の幅が狭いので特にそうなります。
で、あるにも関わらず、取るに足らない雑多な仕事に追われて、時には締め切りに遅れ、原稿を落とし、やっつけで書き、それもまあしょうがないだろうと思ったりし始めます。慣れって恐ろしいですね。
そんなことも含めて、一切(誤字すら)訂正せずに当時のまま掲載してみました。
読みづらいのは、わざとです。字が間違っているのも、ほとんどはわざとです。
そんなものを人に薦めるなということなんでしょうけども、よろしければ各エントリーをお暇な時にご覧いただければと思います。
クリエーティブ?クリエイティブ?電通は伸ばして博報堂は伸ばさない?知るか。
そんな言葉を僕は自分の生活の中で使ったことも見たり聞いたりしたこともありませんでした。
いや、ちらほらと僕の周りに飛んでいたかもしれませんが、だとしたら無意識のうちに、僕の目が、それを見ることを避けていたのかもしれません。だって恥ずかしいじゃないですか。
クリエイティブて。恥ずかしい。今の若い人たちは平気で口にしますよね、うらやましい。
僕は淡々と進学校に通って淡々と普通の大学に合格して淡々と通っておりましたので、
そういう意識高い系の人、華やかな業界に興味のある人は周りにいませんでした。
そういうことが、『仕事になる』というイメージを全く持っていなかった。
大学四年生、就職活動をしている最中、同期がレコード会社から内定もらったという報告を聞いて、衝撃が走りました。
「え、そんなんもあんの?レコード会社って何するとこ?」
仕事っていうのは、金融とか商社とか不動産とか製造とかメーカーとかそういうのだと思っていました。こういうのを、意識低い系、もしくは情弱と呼ぶんでしょうね。
音楽や広告や映像や放送を仕事に、とか、面白いことを考えるのを仕事に、とか、芸能人と仲良くなる仕事に、とか、今や僕の周りにはそれ系のクソガキの方が割合的には多くなっていて、これは最近増えたというよりも、昔からずっと、僕の視野が狭かっただけなんだろうなと。
そういった恥ずかしさや妬ましさ、憧れや気後れなどが、クリエイティブという言葉にそのまま向けられています。
クリエイティブ、という言葉からは、『制作』の匂いがどこか漂います。
制作の制は、制約の制、と箭内さんもおっしゃっていましたとおり、
一言で申し上げれば、人から金をもらって、その金で人の作りたいものを作る、ということです。
じゃあ自分の作りたいものを作って売って金を稼ぐのが『創作』か、と問われれば、
うーん、まあそうかもしれないですねとしか答えられないレベルの曖昧さなんですが、
『創作』には、あまりクリエイティブという言葉を使わない気がしています。
つまり、主に、このクリエイティブという単語をありがたがって使うのは、
人のフンドシで相撲を取る人たちなんだと思っています。
これは全く悪口ではないですよ。最近の僕は全く人の悪口を言ってませんから。ウソです言ってます。少しは言ってますけど、これに限っては全く悪口ではありません。誰のフンドシであっても、要は相撲を取って、相撲に勝つことが大切なわけですから。自分のフンドシであるというプライドだけを胸に、誰とも相撲をとらず死んでいく人だってたくさんいて、そんなプライドは朝稽古に連れ出して金属バットと一升瓶でかわいがってやればいいのです。
制作、という言葉との関連で言えば、クリエイティブとは、無味乾燥な『業務』に振り掛ける、もしくは振り掛けたつもりになりたい魔法の粉であって、クリエイティブというのは『コア』そのものではありえません。
人生や日常、もちろんそれらは仕事を内包しますが、いつもとは違う角度から捉えることによって新たな喜びを見出していく。
それがクリエイティブなのだとすれば、日々やっていることはこれまでもこれからも変わらんということの裏返しでもあって、せめて考え方だけでもポジティブにしていこうや、ということで。
“Always Look on the Bright Side of Life”
…というのは、ドリカムの『go for it!』という曲のせいでオシャレサイドに堕落させられた(笑) モンティパイソンの映画、『ライフ・オブ・ブライアン』のエンディングテーマ曲のタイトルですが、
英検3級の僕が翻訳すれば、「いつも、人生の輝いている、陽の当たっているところを見て生きて行こう」ということですよね?そうですよね外人?外人て。
その言葉がどんな意味をもって生まれ届けられたのであれ、僕たちは、その瞬間の自分にとって都合の良いようにしか言葉を解釈しません。
都合の良い、というのは、ここで都合悪いことを言われといたほうが都合が良い、ということも含めてです。悲劇のヒロイン症候群的なことですよね、代表例は。ひどいことを言われている私かわいそう!というオナニーです。気持ちいいですよねあれ。
その観点から見れば、“Always Look on the Bright Side of Life”という言葉は、今の日本においても多数のみなさん、特に自分探し系のみなさんには、それこそキャーキャーで受け入れられるでありましょうが、この言葉の根底に流れているのは、どうやったって変わらない運命や生まれの不遇、という圧倒的な現実です。
この映画の中でこの爽やかで美しく軽やかな曲が合唱されるのは、イエスを模した主人公、ブライアンを始めとする囚人たちが十字架に磔にされてまさに今処刑されようとする瞬間なのです。
また、他方では、どうやったってひっくり返らない身分階級、搾取する側とされる側として生まれ死んでいくという諦観の中から生まれる皮肉や風刺こそが、モンティパイソンを含むイギリスの笑いでもあります。
どうやったって、どうにもならんのは同じなのに、何であえて暗くイジけなきゃいけないの?せめてオモロイこと見つけて笑ってるほうがいくらかマシじゃない?
“Always Look on the Bright Side of Life”
っていうのは、そういう意味です。
さまざまなー角度から―物事を見ていーたらー自分を見失ーってーたー
とミスチルは歌っていましたけれども、そもそも自分を見失っているどころか見つけたことさえない人だからこそさまざまな角度から物事を見ることに必死こいてしまうわけですよね。
繰り返し申し上げますが、クリエイティブとは、僕たちの人生に振り掛ける、もしくは振り掛けたつもりになりたい魔法の粉であって、クリエイティブというのは『コア』そのものではない。
クリエイティブな仕事、というものは、この世には存在しないのです。
面白いことを考える仕事、というものは、この世にはありません。
これつまんないよね。
全然面白くない。
何か他にないの?
もっと考えたほうがいいんじゃない?
もっと強い表現でさあ。
もっと人の興味引かないとダメだよ。
もっと。もっと。もっと。
もっと、というのは、何倍かに増える、ということですよね。
彼らは何を増やそうとしているのでしょうか。
クリエイティブは魔法の粉だ。
粉をいくら増やしても、腹は膨れない。振り掛けをかけても、メシは増えない。
僕たちに必要なのは、ご飯なのです。
「何を」クリエイティブにするのか。
「何を」クリエイティブにしたいのか。
その「何か」は、クリエイティブ無しでは、存在できないか。
その「何か」は、クリエイティブ抜きでは、どのような存在か。
あなたは「何を」、クリエイティブにしたいのか。
コアに何もないなら、ゼロに何を掛けても、ゼロのままです。
ご飯があるからふりかけは振り掛けられるのであって、
ご飯がないところにふりかけは生まれない。
魂のないところにクリエイティブは生まれない。
魂は、魂として、それ自身が素晴らしい。
万が一素晴らしくない魂があるのだとしたら、そこにどんなクリエイティブを振り掛けようと意味がありません。
道端の犬の糞に金箔をはらりと乗せて、何をしようというのですか。
笑いたい、日々を幸福に過ごしたい、という意志があって初めて僕たちは、
bright side of lifeを見ます。
そしてそれは、「何だよ、俺の人生なんかクソそのものじゃねえか!」
という事実とは、全く別のものなのです。クソなことなんかとっくに分かってる。
少なくとも僕はチン毛が生える前から知っている。
その上で僕たちは笑いたいのか、幸せになりたいのか、と問われ、
イエスと答えた人のために、クリエイティブという名の魔法の粉は渡される。
「クソな人生だと分かりきっているなら最初から努力するだけ無駄だろ」
と答えた人には、何も渡されない。
両者の結末は同じです。死ぬ。
映画『ライフ・オブ・ブライアン』のエンディングで、俺は今から処刑されるのだと沈鬱な顔でうつむくブライアンに、その後方で同じく磔にされている男は、元気出せよとばかりに、歌い始めます。今からブチ殺されるのに元気出せよもないもんですけど、その男は歌いだす。
“Always Look on the Bright Side of Life”
なぜこの曲は、孤独でニヒルな独唱ではなく、磔にされた男たちの、楽しげな合唱として歌われたのか。なぜ男は、ブライアンや周りの死刑囚と共に歌うのか。なぜ声をかけたのか。
僕が考えるクリエイティブのひとつの答えは、たぶんそこにもあります。
http://utaten.com/lyric/ea00001156
人生には悪い事もあって
ホントに頭がおかしくなったりもする
愚痴言ったり罵ったりもしてしまう
どうも何か上手くいかねーなー…ってときは
文句言う代わりに、口笛を吹こうじゃないか
そしたら、何もかも、良い感じになるかもしれないよ?
だから…
いつも人生の明るいほうを見つめて行こう
いつも人生の陽の当たるほうを見つめて行こう
人生がクソに見えるのは、忘れていることがあるからさ
笑うとか、踊るとか、歌とかね
ゴミ溜めみたいな気分になるかもしれないけど
アホみたいなことするのはやめて、口笛を吹いてごらん
ほら!これで万事解決だ!
だから…
いつも人生の明るいほうを見つめて行こう
いつも人生のいいほうを見つめて行こうよ
人生なんて不条理だ
どうせ最後は死んじまう
幕が下りるその時は 深いお辞儀でお別れだ
犯した罪は忘れてしまえ 観客の前では笑っとくもんだ
楽しんじゃえよ どうせこれが最後の晴れ舞台さ
だから…
いつも『死』の明るいところも見て生きていこう
呼吸が止まるその瞬間までね
人生なんてクソのかたまりだ
でも、見方さえ変えれば
人生はお笑いだ、死だって冗談だ
本当だよ
こんなの全部、所詮ショーみたいなもんだ
周りのやつらにはいいように笑わせときゃいい
でも、忘れるなよ
最後に笑うのは、君だ
いつも人生の明るいほうを見つめて行こう
いつも人生の明るいほうを見つめて行こうよ
おいみんな 元気出せー!
いつも人生の明るいほうを見つめて行こう!
「航海に出るともっとひどいことがある」ってことわざ、知ってるだろ?
もっと最悪のことなんか他にも山ほどあるから、あんまり落ち込むなよ!
いつも人生の明るいほうを見つめて行こう!
何を失うっていうんだ、分かってるだろ、何もないって!
何か失くしたって? 失くしたものなんて何もねーだろ!
(※英検3級適当和訳)