(*メルマガNo.065 2012/10/23)
----------
運命。運命。運命。
運命という言葉は、すべて結果論で使用されます。
起こった結果をあとづけで、「運命」と呼ぶのが都合よければ、僕たちはそう呼ぶ。
僕たちが僕たちであるならば、すべてのことは偶然です。
偶然出会い、偶然食べ、偶然買い、偶然笑い、偶然セックスして、偶然寝る。
「そんなことはない、自らの意志で選んだのだ、掴んだのだ」
「そんなことはない、これはもっと神とか仏とか、大いなる意思によって定められていたのだ」
自由意思によって自分の行動を決定できる、ということが素晴らしいことではなくて、
自らの意志で自分の行動を決定した、と思える環境であることが素晴らしいのです。
実際は違う。
大いなる意思によってあらかじめ決められていた、ということが素敵なことなのではなくて、
そう信じることによって精神状況が素敵になった、ということです。
実際は違う。
僕たちは身の上に起こった出来事を、その時の自分の精神状況に応じて、
「自分で選んだ」「誰かのせいだった」「運命だった」と使い分けて結論します。
どれを選べば、自分の精神状態が最も良好に保たれるかによって、それらは決まる。
そしてそれらは全て、偶然起こり続けることの点の連続に過ぎません。
----------
偶然を運命と呼んでしまう。
その理由はただひとつ、人生が二度ない、からです。
来世もないし、死後の世界もない。
サイコロの出る目の確率はそれぞれ6分の1ですが、僕たちに人生は6度も訪れない。
6度訪れなかろうが、出たサイコロの目は偶然ですが、もうサイコロを振る機会は来ない。
それを運命と呼ぶなら、それはそれで、結構なことだと思います。
僕は全てが偶然でたまたまでカオス理論であっても、十分楽しいんじゃないかなとは思いますが。
........