発想力とかひらめきとかに、ある種のスピリチュアルな、信仰にも似た絶対性を感じている人は少なくないのかもしれませんが、それらを僕は全く信じていないというのは以前にも申し上げた通りです。

ひらめきは、記憶のアレンジでしかない。ある記憶とある記憶を組み合わせてアレンジする。

その組み合わせの結果を、僕たちはひらめきと読んでいるにすぎません。

人は、記憶の上でしか思考できない。知らないことについて考える、というのは根本的に不可能なのかもしれません。

 

 




『面雀』をご存知でしょうか。オモジャンと読みますが。

麻雀牌的な札に、「さすがに」とか「ダンスウィズ」とか「そうは言っても」とか「壁一面」とか「コンビニ袋」とか適当な言葉が書いてあって、任意の2つを組み合わせで誰が一番面白いかを競うという遊びです。松本さんの一人ごっつが最初なんじゃないかな。何が最初かなんて誰にも分からないですけど。

「『ダンスウィズ』『コンビニ袋』、えーっと、これはですねー…」みたいな、面白発想脳を競う、松本さんが良くやってた大喜利、みたいなニュアンスで何となくご理解いただけるんじゃないかと思いますが、僕はいつもその面雀を見ると、ニヤニヤと笑ってしまうのと同時に、ひらめきとは何かということについて考えてしまいます。

 

 

少し前のニュースなのでみなさんはご存知ないと思いますが、韓国の申京淑(シン・ギョンスク)さんという有名な小説家が、三島由紀夫の『憂国』をパクったと指弾され、最初は否定していたものの、「読んだ記憶がないが、今ではその記憶も信じられないので削除します」と謝罪したということがありました。

 

*パクられたとされる箇所

 

“二人とも実に健康な若い肉体を持っていたから、その交情は激しく、夜ばかりか、演習のかえりの埃だらけの軍服を脱ぐ間ももどかしく、帰宅するなり中尉は新妻をその場に押し倒すことも一再でなかった。麗子もよくこれに応えた。最初の夜から一ト月をすぎるかすぎぬに、麗子は喜びを知り、中尉もそれを知って喜んだ。” (三島由紀夫『憂国』)

 

*パクったとされる箇所

 

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……は?

まあいいや、百歩譲って『伝説』の日本語訳いきますね。

 

2人とも健康な肉体の持ち主だった。彼らの夜は激烈だった。男は外から帰ってきて、土埃のついた顔を洗う暇も惜しく、急いで女を押し倒すのが毎度のことだった。最初の夜から2カ月後、女はすでに喜びを知る体になった。女の清逸な美しさの中に、官能は薫り高く豊かにしみこんだ。その熟れた歌を歌う女の声にも脂っこく染み入り、今や女が歌うのではなく、歌が女に吸われるようだった。女の変化を最も喜んだのはもちろん、男だった。”

(ハフィントンポスト日本版による翻訳 http://www.huffingtonpost.jp/2015/06/22/shin-gyung-suk-plagiarism_n_7641840.html)

 

 

……は? どこがどう似てるのか、僕には全く分かりませんでした。

この作家さんの作品は当然読んだこともないし興味も特にないのですが、このニュース見て僕はビビりました。はっきり言って。これが剽窃なら、僕の全ての創作、いや全ての人生は、パクリです。何もかもがパクリ。何かを世に発表するたびに、「パクリで申し訳ありません」と焼き土下座しながら提出しなければなりません。僕は三島由紀夫とか何を読んだかすら覚えてないですし、好きでも嫌いでもないですけど、この韓国の人よりもよっぽど三島由紀夫っぽい文章、探せばどこかにありますよ。間違いなく。そしてそれを剽窃だと言われたら、「死ね」としか答えられないです。

 

 

技術の進化は人間の脳みその何千億倍もの膨大な、易々とアクセスできるアーカイブを作り、人間はそれを最新型パクリ発見器に使いました。

道具に善悪はない。常に使う人間が善悪を決める。

 

 

ずいぶん昔に、人間は真に新しい、というものを失った。

どれもこれもが、とっくの昔にほかの誰かにやり尽されてしまったことである。

誰かが思いついたけど黙っているもの、すでに発表されたが誰にも知られることのなかったものを自分が生み出したとして、それは本当に新しいと言えるのか。

僕に芸術のことは何も分かりませんが、アート界のみなさまはもうずいぶん前から、それこそ何百年も前から、この問題に向き合っていらっしゃったことと思います。

 

それでもかつては信じることができた。新しい物はまだあると。0から1はあると。自分は真に新しい物を生み出すのだと。

技術の発展による後押しもありました。新しい道具、新しい科学、新しいハードウェアによって、また新しい発想が、新しい創造ができると。ハードが進化すれば、ソフトも自動的に新しくなるのだと。新しいマシーンを手に入れれば、新しい物が生み出せると。しかしそれは幻想です。

 

いつしかどうにも信じられなくなって、僕たちは組み合わせることにしました。

すでにあるものとあるものを組み合わせて、新しく見せる。古い物をいじって新しい意味を求める。昔からあるものに味付けして目先を変える。リミックス、サンプリング、アレンジ、リメイク、パロディ、オマージュ、二次創作…

そうした結果、生まれながらに、「新しい」ということへの向き合い方が僕たちとは違う世代も登場したような気がしています。いや、「新しい」ということに意味を感じない人たち、と言ったほうがいいかもしれません。

 

見渡す限りの「古い物」たちは時を経て腐り消えることなく周囲を埋め尽くします。半永久的に。

ジジババは古い物を大切にしろと言う。温故知新だと。良い物は時代を超えて良いのだと。

僕たちの目の前には、ジジババたちが目にした何千億倍もの「古くて良い物」が溢れかえる。

古くて良い物を一通り眺めることさえ叶わないまま、僕たちは人生を終えていく。それが本当に今までになかったものかどうか、チェックしているだけで老人になってしまうなら、「新しい」なんて要らないんじゃないか。

 

ついには、新しいということの意味も、溶けて消えていく。深海魚から眼がなくなったように、端から、新しいなんてことを求めなければいいのです。

 

 

すでにあるものとあるものを組み合わせて、新しく意味を見出そうとした。組み合わせた、その結合点に新しい火花を見ようとした。そしてその火花さえも、古い物として僕たちを埋め尽くす。

 

意味のある組み合わせすら、もう定員オーバーなんですよ。だったらどうするかというと、意味不明な組み合わせ、訳わからん組み合わせしか残っていない。新しいものを生み出そうとすれば。

で、自分でも意味わからん組み合わせを適当にガチャガチャやって、分かる人には分かるとかそれっぽいことを仄めかしてみたり、自分の意思を飛び越えた、あるいは無意識下の行為そのものをアートとするとか何とか言ってみたりする。

「新しいもの」業界においての現状は、そんな感じだと、勝手に推察しています。




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このエントリーは、

ルマガ 山本山本佳宏『二十一世紀の未読』

本日配信分の一部を抜粋したものです。

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