まあ一言で言うと、カスみたいな学校だったんです。僕が通っていた中学高校は。

自らの居場所の価値は自らが与えるものだという、身も蓋もない真実を差し引いてもなお、学校という箱の中には多量のカスがこびりついている。逆パンドラの箱とでも呼びたくなるようなありさまです。



 

何度かどこかで話しましたけど、僕は卒業式のあと校舎に放火してやろうかと三時間ぐらい悩んだ程度にはその学校の事が嫌いでした。殊更に大人になって思い出したくもありませんでした。そこでの記憶が笑い話として昇華され、酒の肴にでもできれば何の問題もないのです、むしろそうなることを望んでいるのですが、いつの間にか苦々しい顔で毒づき話を終わらせている。これでは周囲を困らせるだけではありませんか。なおさら思い出さなくなります。

 

他の生徒も同様だと思っていました。今から思えば何の根拠もない思い込みでした。でも本当にそうだと思っていたんです。あの学校に、人によっては好きになることができる要素があるとはどうしても思えませんでした。

 

久しぶりに母校のことを思い出したのはほんの数年前でした。これもどこかで話しましたがドブのような色合いでおなじみのフェイスブックにパラパラと、中高の同級生から申請が届き始めたのです。どうやら何人かが意気投合して、でかい同窓会をやろうじゃないかと盛り上がったのがきっかけのようでした。良い年こいてテンションの上がった彼らは同級生をフェイスブック上で探してコンタクトし、コミュニティのようなものを作って思い出話に花を咲かせ始めました。年寄りが思い出話をするのは水が上から下に流れるがごとく当然のことなので、それはいいのです。近づきたくはありませんが。驚いたのは、そこに集まる同級生たちが、それはそれは楽しそうに学校生活や当時の教師たちのことを語っていることでした。

 

うせやろ?

ホントにそんなに当時楽しかった? それとも例のごとく年を取って記憶が都合よく書き換えられたパターン? 書き換えるとしたら相当の大工事ですよ? 枝葉をちょちょっといじる程度では、あの学校が楽しかったなんて結論にはならないはずですよ? お前全然友達おらんかったやん。俺もおらんかったけど。ろくに言葉すら発さずに、こういう私立だからギリギリいじめられずに済んだくらいのカスカスの毎日送ってたやん。俺もそうやけど。何でそんなに充実した六年間を過ごしましたけどみたいなしれっとした顔で輪に加わってんの?

 

僕は眩暈がしました。百歩譲ってリア充チームは良しとしましょう。何だかんだで友達と過ごした日々はかけがえがないの一点突破で学校そのものを美化することはできるかもしれません。でも全員はおかしいだろ。僕ら生ごみチーム、生ごみはチームですらなくバラバラに教室に落ちてただけですけど、僕ら生ごみは、いくら現在の成功によって得られた、「まあええがなええがな」スタイルがあったとしても、あの六年間が楽しかったみたいなのは、それはただの嘘だろ。美化ではなく。それ以来、一回もフェイスブック見てないですけどね。「Facebook」からのメールをスパム指定してやりましたから。

 

中高一貫の中途半端な偏差値の進学校でした。当時でさえ前時代的も甚だしい無意味な校則で縛りあげ、それをもって良識と道徳ある人間を育てるという建前とは裏腹に、彼らが求めているのは大学進学実績ただひとつでした。厳しいなら厳しいで良いんですよ、そこに信念と根拠があるなら。信念があるなら、ガキには分からずとも、それへの反抗は真っ直ぐ飛び出す、とても価値のあるものになったはずです。意味がないんですよ。厳しさに。信念がないんですよ。校則に。

 

言ってることとやってることがバラバラの年寄りたちはいつも不機嫌そうに、イライラして、猜疑心をむき出しにして、濁った眼で、僕をねめつけました。僕は子供のころから、周囲の大人たちに、幸せとは何か、楽しいとは何かを教わったことはありません。生きてて楽しいんだ、面白いんだ、幸せなんだと、どこかからパクってきたようなお題目ではなくその生き様として、僕に見せてくれた大人はいませんでした。僕は生きてて何が楽しいのか、何が幸せなのか分からないまま、そんなこと他人に聞いても分からないんだ自分一人で考えなきゃダメなんだと思う大人になってしまいました。僕が思春期に見たこの学校の大人たちはいつも、残飯を漁る東京湾の深海魚のような顔で校舎を這いずり回っていました。



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このエントリーは、

ルマガ 山本山本佳宏『二十一世紀の未読』

本日配信分の一部を抜粋したものです。

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