過去は記憶に縛られて、未来は夢に縛られて。僕たちはどこにも行くことができない。

僕たちには、今しか残されていないのです。

ただひとつ、どこにでも行くことができる今の自分の自由を、過去や未来は制限します。

 




過去の記憶の意味や価値は、今の生き方によって変えることができる、というのは、正確には少し違います。

僕たちにしがみつき、縛り続けようとする過去は、僕たちに捨てられないようにと必死で自ら意味を変え続け、僕たちはそれを望んで良しとする。自らを過去に縛り付け、自由を捨てる。

 

「そうだよね、過去はダメだよね、未来最高!」

 

過去はダサく、未来はカッコいい。そうお考えの方は確かにいらっしゃいます。未来志向なんて言葉は、100%の大正義ポジティブワードとして使われていたりします。しかし彼らは、大いなる誤解をしていらっしゃると思う。

 

いつの日か「未来」が、「現在」になる日が来るとお思いなのではありませんか?

いつの日か「未来」を、今の自分が手に入れられるとお思いなのではありませんか?

 

未来は未来のままです。現在は現在のまま。

未来が現在になる瞬間。その二つが一つに重なる瞬間は、死ぬときです。それまで訪れることはありません。未来を求めているとすれば、生きながらそれを手に入れることは決してありません。

 

こうありたいと描いた自分の姿が実現したところにゴールがあって、それを目指して生きていけばよい。

それは、誤りです。

 

かつての自分が設定した未来。1日後、あるいは1年後10年後50年後に到達したとして、そこに思い描いたもののゴールはありません。

そこにあるのは、「今の自分」です。

過去の自分から無責任な荷物を押し付けられた、「今の自分」です。

その荷物を再び「未来の自分」という、どこにも存在しない人間に向かって盲投げする、「今の自分」です。

期待していた通りの未来を実現したと、ゴールテープを切ったように喜ぼうとする目の前に、さらなる暗闇が待ち構えることに気づく、「今の自分」です。

未来を望んで得られるものは、さらなる未来でしかありません。進めば進むほど、僕たちには今しかないことを知る。未来が手の中にあるどころか、いつまでたっても目の前にただ広がり続けることを知る。

 

理想は、未来ではありません。

理想は、正しく今のものです。

こうでありたい自分と、実際の自分のギャップや矛盾を、リアルタイムで確かめるための、比較材料です。

今行動するための道具なのです。

 

「未来にはこうなっているべきだから、今こうしなければならない」

10年後の理想はこんな感じだから、そのためには今これをします」

 

10年前に考えた理想と、今考える理想、僕たちはどちらを優先するのでしょうか。

昨日考えた明日の自分と、今日考える今日の自分、それは比較するべきものなんでしょうか。

 

架空の、どこにも存在しないゴールに縛られ、今の自分は身動きが取れない。

10年後の自分のために、今の自分は自由を犠牲にしていく。

この10年で自分がどのように変わり、どのような人間になるのか、僕たちは知らない。

10年後の自分はそれを知っている。

なぜ、知らない者がわざわざ10年後にまで出しゃばらなければならないのか。

 

今を放棄しているからです。

1年後の俺! 俺が計画してやった通りに幸せになっとけよ、分かったな!」と言って自分の人生をはるか遠くに放り投げれば、今の自分の行動の責任は、未来の自分とやらが取ってくれるのだと、勘違いしている。

「今やりたいことを我慢したり努力を積み重ねたりしているのは、全部お前のためなんだぞ!」と、自分の犠牲を、文句も言わない未来の自分に押し付ける。

 

今の自分は幸せでなくてもよく、未来の自分は幸せになるべきである。

今の自分と未来の自分を比較して、未来の自分の幸福のほうが優先度が高い。

こんな差別はどこから生まれたんでしょうか。

 

未来を手にすることは死ぬまでありません。

未来は希望や絶望や、その他の何かが詰まった宝箱ではありません。ただひたすらに、何もない暗闇です。

なぜか。そこに僕たちはいないからです。自分がいない場所に、世界はない。




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このエントリーは、

ルマガ 山本山本佳宏『二十一世紀の未読』

本日配信分の一部を抜粋したものです。

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