書いている途中で、「何でTwitterなんかに書かなあかんねん」という気持ちで胸がいっぱいになりまして途中でやめたのがこちらのツイートになります。

 

いつも申し上げているように、人間が幸福に生きるために、人間がルールを作ったのであって、ルールが人間を作ったわけでも、ルールのために人間は生きているわけでも、ルールに生かされているわけでもありません。

ルールは守らなければならない、というのは一部は正しく、一部は間違っています。自分が幸福になるためにルールは守らなければならない。しかし、自分が幸福にはならないルールは破り捨て、自分が幸福になるルールに新しく変えなければなりません。

 

何と身勝手な考え方だろう、とおっしゃる人がいます。「他人に迷惑をかけてはいけません」「自分一人で生きているわけではありません」「人に迷惑をかけないようにするために、ルールは守らなければならないのです」と。





これだけはご理解いただけなくとも何度も申し上げますが、ルールは、他人に迷惑をかけないために生まれたり、作られたりしたものではありません。

あなたであり僕であり、そのほかの個人がそれぞれ、「自分の幸せ」のために「自分自身が」作るものです。

 

自由です。僕たちが生きていくうえで、僕たちの意志に何かを強制することは誰にもできません。僕たちが生きていくうえで、僕たちの行動を妨害することは誰にもできません。僕たちが生きていくうえで、あらかじめ決められていることは、「そのうち死ぬ」。このこと以外に何もありません。自由です。

 

理想論に過ぎない、とおっしゃる人がいます。お題目としてはそうであっても、実際に生きていくうえで、自分の自由になることなんてほとんどないのだと、結局は他人とのしがらみを必死に掻き分けて出来た狭い道を何とか進んでいくしかないのだから、叶わぬ夢をいたずらに吹聴するのは害にしかならないと。

 

みなさんご存知の通り、自由はある意味では大変恐ろしいものです。道しるべがない。案内がない。ほれどこでも好きなところに行けと言われて真っ暗な空間に放り出される。どこに行けばいいのか分からない。未知は動物の本能に刷り込まれた恐怖です。多くの人が、自らの意志で自由を捨て、自ら手や足に枷を嵌め、自ら鎖につながれ、自ら進む道をあらかじめ限定します。安心に包まれた心地よい怠惰。それは動物としての僕たちが本能として望んでしまうことの一部でもあります。

僕たちの人生が自由でないのだとおっしゃるならば、それは、自分自身で自由を捨てたからです。自由に生きることは叶わぬ夢なのではありません。あなたが恐怖によって自由を自ら捨て、あなたは自由であることが叶わなくなってしまった。挙句に「私には自由なんてない」と嘆くのは本末転倒です。



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このエントリーは、

ルマガ 山本山本佳宏『二十一世紀の未読』

本日配信分の一部を抜粋したものです。

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