(この章を読むのに必要な時間:約210)

 

 死角で何かが起こっている。起こっているのは確かだ、しかしそれを見ることができない。

 

 同僚に禿げを指摘されたのは、1か月ほど前のことだ。

 笑いにもならない嘘をつくな空気の読めない冗談だと西から東へ受け流して同僚もだんだんむきになって人差し指先で小突き回すように私の後頭部を差して禿げてるんですよここが本当にと今にも禿げそうな大声を出したが私には見えない、そこは死角だ。死角だから見えない、だから禿げは無い。

 同僚はその後もしつこく、事あるごとに私に禿げがあることを認めさせようとした、彼によると禿げは一か所ではなく、複数箇所に散在しているらしいが私には見えない、どれも死角だ。だから禿げは無い、一つたりともない。

 朝起きてテレビをつけたら「今日のお前の運勢は最低だ」と明るい声で宣告され、会社に行けば同僚が「手鏡を持ってきたのでトイレで見てみよう」と腕を引っ張る。強盗のように野蛮、通り魔のように理不尽。私は朝からギャンブルをするつもりもないし、禿げてもいないのに禿げている禿げている禿げていると連呼されるような不快な思いをしなければならない謂われもないはずだ。無いとは分かってはいても禿げが山ほどあるなどと失礼な事を言われれば要らぬ心配が生まれてしまう。



 

 風呂に入って髪を洗いながらそれとなくそれらしい場所をそっと指の腹で撫でてみて、良く分からない。風呂を出てそのまま洗面台の鏡に向かって数分、改めて頭の裏側を触る。薄くなっている部分があるようなないような、ただ髪を強く指で掻き分けているだけのような気もしてよく分からない。死角だから見えない。

 私は意を決した。湯気で曇る鏡をタオルで乱暴に拭って両端を開き三面鏡にした。いいだろう。確かめてやろうじゃないか。死角なのをいいことに度を過ぎた冗談を押し売る同僚に動かぬ証拠を突きつけてやろうじゃないか。

 

 虚空に漂う人工衛星のように、頭をゆっくりと時計回りに回転させる。合わせ鏡の向こう側で黒く濡れた物がいくつもいくつも、同じ角度で光を浴びて、惑星直列のように鈍く自転している。こちらを見る顔二つ、あちらを見る顔二つ、その向こうにまた二つ、どれも穏やかで不安げな角度で回転していて、どれも決死の形相で目を剥いていた。

 瞳は目尻と目頭にねじ込まれて大きく開いた口からは涎も垂れ落ちてまだ上気だった身体は九十度縦に、捻じれた。もう少し、もう少し。もう少し。わき腹が悲鳴を上げて支える腕が震えチラリと禿げらしきものの端が髪の隙間から見えたような気がして小さく唸りながらもう少しもう少し、もう少しで、禿げは見えず鏡に映るのは息を切らせて肩を上下させる濡れた半裸の男で、ならばと反対側の鏡に向かって反対側に頭をよじったがもう少しで見えそうだというところで今度は黒目がそれ以上は横に行けませんごめんなさいと土下座する。

 

 腰に巻いたバスタオルが床に落ちているのにも気づかず私は、しばし洗面台に両手をついてうなだれた。何かが見えたような気もするが見えない。汗か湯か、頬を伝って滴り落ちる。頭を右に回しても左に回しても、私の頭に禿げを確認することができなかった。死角だ。死角だから見えない。見えないのだから禿げは無いのだ、と高らかに宣言して、何の困ることがあるだろうか。私は宙に舞い上げるように拾い上げたバスタオルでいつもより乱暴に頭を擦り上げながら洗面所を出た。



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このエントリーは、

ルマガ 山本山本佳宏『二十一世紀の未読』

本日配信分の一部を抜粋したものです。

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