財布がない。

 

小銭入れはある、鍵もケータイもある、財布がない。

数時間前、家に帰ってきたときに手に財布を持っていたのは間違いなく覚えている。つまり僕はこの部屋で財布をなくした。

 

ファラオの棺桶程度の広さしかない空間でそれは消え、僕は真ん中に立って首を少しだけ左右に動かし、少し膝を折って床に置かれたカバンを動かしてみることもしない。なぜなら僕はいらだっているからだ。

 




財布がないから出かけられない。

あの店で落としたかもしれない、タクシーに忘れてきたかもしれない、それなら僕はかえって晴れやかだ。可能性のある場所に電話し、カード類の使用を止めて再発行を申請し、必要があれば警察に届け、誰かに数万円借りれないかとお願いし、そして財布をあきらめる心の準備をする。全てのするべきことが明確で、わが心に一点の曇りもない。黄門様に「やっておしまいなさい」と命じられた助さんのように晴れやかな雄叫びを上げることさえできるだろう。

 

しかし財布は間違いなくこの部屋にある。失くしてはいないのだ。

失くしていないのに見つからない。活きの良い金魚すくいのようだ。僕には躍起になってポイを振り回し金魚の尻を追い回すことはできない。するべきことが分からず、いらだちながらもぼんやりと部屋の真ん中に立ち、もしかするとふて寝さえするかもしれない。

 

 

布団を頭からかぶって財布のことを考えた。あいつは一体何様のつもりなのか。

クレジットカードに保険証、少しの現金と免許証。

僕がどうにかこうにか生きていくためのほとんど全ての手段を奪って、あいつはこの部屋のどこかで息を潜めている。

息を潜めるのは結構、かくれんぼも時には楽しかろう、しかしだ。

まるで、ずっと隠れていても僕が必死に探し回り続け、最後には「みーつけた」と言ってもらえるのが当然であるかのごとく思い込んでいるその姿勢に、僕はいらだっている。「どうせ部屋の中にあるのが分かっているんだからカバンや服をひっくり返しながら血眼になるんでしょ」と。

 

僕にはこのまま、財布を探すのをあきらめることだってできるのだ。それをあいつは知る必要がある。

 

 

会社も学校もメディアも井戸端もネットも誰も彼もが、社会的地位の上げ下げで一喜一憂し、誰かのそれを弄ぶことに血道を上げ、自分のそれが貶められることに恐怖する。だからゴシップはなくならない。自分と他人の社会的地位のアップダウンが最大の娯楽。それが社会的動物である人間がたどり着いた、悪臭芬々たる約束の地だ。

 

「いいんですか? あなたの社会的地位を下げますよ? 周囲から眉を顰められますよ? まともに生活できなくなりますよ? 友だちいなくなりますよ? お金稼げなくなりますよ? 知られたくない秘密を暴かれたり嫌な噂をバラまかれたりしますよ? いいんですか?」

 

これが誰にでも通用する、万能の脅迫だと疑いなく信じている人は驚くほど多い。

「いいですよ別に。お好きにどうぞ」という回答がこの世に存在しないかのように、生き生きと、こちらの社会的地位を人質に様々なものを求めてくる。

 

「社会的地位に興味のないものは狂人である」

「すでに社会的惨敗を喫し、守るべきものがない底辺層である」

「社会的地位を気にしないなんて、畜生と同じじゃないか」

 

僕は社会的地位に頓着がない。社会的に合意されたルールや道徳を懸命に守るつもりがないのは、その結果生じるものに恐怖がないからだ。飽きたら、その社会から出て行けばいいだけだ。そのさまを、狂人と呼ぶなら、負け組と呼ぶなら、動物と呼ぶなら、好きにすれば良い。

 

 

僕たちが生きる「社会」とは、互いのことを理解できなくても、何となく一緒に生活できるシステムにすぎない。社会的動物だから、他の動物よりも相互理解が深いわけではない。理解できていることにするために、社会規範を生まれた時から徹底的に刷り込まれ、幻想を共有する。

 

社会から逸脱しようとする者を、(これは負け組のことではなく、文字通りの逸脱者のことだが) 人から貶されたり仲間外れにされたりしますよと脅迫することの意味の無さに、刷り込みによって生きている人たちはなかなか気づくことができない。それは幸でもあり不幸でもある。

 

 

財布よ。

お前は僕がお前を血眼になって探すのが当然であると思っているのだろう。お前はそのように育てられてきたのだろう。自分がいなくなった時、必死に探さぬ者などいない、それが当たり前の世界で生きてきたのだろう。

財布よ。

僕はお前に告げよう、僕はお前を探さないと。

お前が隠し持つ、僕の現金やカードや免許証や保険証は、僕はお前が想像するほどには大切に思ってはいない。それよりも僕は、お前のその態度に対する不快感と決別を大切にし、優先するのだ。

財布よ。

お前は決して悪くない。お前はそのように教育を受け、それが当然の社会で育っただけだ。その生き方を変える必要はない。

財布よ。お前に望むことは、お前とは全く違う教育を受け、全く違う社会で育った者もたくさんいて、彼らのことも同様に善悪では語ることができないということに気づいてほしい。ただそれだけだ。

自分と最もかけ離れている者、自分が最も嫌う者と共に生き、何よりも彼らの幸福を願うものこそが真の社会であると、気づいてほしい。

 

…ということで先ほど台所の床に落ちている財布を発見しました。とても良かったです。

 

 

 

“君が名声や評判、地位を得るための社会に属しているかぎり、愛はありえない。そのような社会には愛がないので、その道徳は実際には不道徳なのである。君がそうしたもののすべてを心のそこから否定し去れば、そのときには愛に包まれた廉潔さが現れる。” (クリシュナムルティ)




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このエントリーは、

ルマガ 山本山本佳宏『二十一世紀の未読』

本日配信分の一部を抜粋したものです。

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