お断りしてきますと、僕は名言が嫌いなわけでは全くありません、名言に群がる人が嫌いなだけです。あのバンドは好きだけどファンと取り巻きががキモイから嫌、的な、例のアレです。

せっかく良いなーと思うんだけど、その周りに群がる人たちがキモイせいで、その良いなーと思うもの込みで、丸ごと避けてしまう。僕は群れそのものがあまり好きではないので、さらにその外周から火事場見物のように眺めるのも苦手です。なのでより一層そう感じてしまうのかもしれませんが。

 




 

【コミュニティの一生】

 

面白い人が面白いことをする

面白いから凡人が集まってくる

住み着いた凡人が居場所を守るために主張し始める

面白い人が見切りをつけて居なくなる

残った凡人が面白くないことをする

面白くないので皆居なくなる

 

 

これは有名なコピペで、mixiなんかはその代表格ですよね、僕もおおむね正解だと思いますけど、この問題について一番気にしておきたいポイントは、「コミュニティの最優先事項とは面白さなのか」っていうことですよね。

普通に溜まって、普通に仲良く会話してたらええがなと。別に面白いこと言う必要ないがなと。

 

井戸端会議って、せいぜい5人から8人ぐらいまででしか成立しません。それ以上大きなコミュニティにはなれない。それ以上大きくなるためには、コアが必要になります。つまり、「面白いこと」を持ち込んでくる人のことです。その人の周りに群がる形でしか大きくはなれません。なぜかというと、そのようなコアになることができる人は、厳密に言えば20人に1人程度しかいないからです。残りの19人は、多くの人数を集めることのできる話題を提供することができない。

だから群がるか、またはコアを持たずとも成立する5人程度の小集団に散っていくかの、どちらかになります。

 

これは面白くない人批判ではなくて、現状、全ての人たちが余すところなく自分の面白さ、自分の魅力を発揮できるような環境は、お膳立てされていませんという意味です。

 

何一つ面白いこと言えない人とか、本当に面白いじゃないですか。言葉遊びではなくて。

「この人とはセンスが違うから伝わらないんだよなー」とか勘違いしている人って、本当に面白いじゃないですか。皮肉ではなくて。

基礎教養もないまま大人になって、聞きかじった浅薄な知識を偉そうに披見してしまう人って、本当に面白いじゃないですか。嫌味ではなくて。

 

面白いんだけど、その面白さを正しく伝える装置や環境は、2013年においても用意されていません。ネットも発達して、「自分の魅力をみんなに知ってもらえる時代がやってきた!」と勘違いしてしまう人は、例の『19人』の中からもたくさん出てきますが、ネットだろうとSNSだろうと、道具は増幅装置に過ぎなかったことに、早晩気づきます。いや、気づかないままなのかな。それは分かりませんけど。

 

 

とは言え、その、「全員面白い」というのを正しく伝え広めるというのは、相当な苦行です。

自分の利益に全くならない上に、「この人のここが魅力的でしょ?」というのは、往々にして、その当人からも「違います、私の魅力はそんなとこじゃない」と言われる。

心が折れそうになりますし、当然飽きます。「何で俺、こんなやつらのためにここまで頑張らなあかんの? 望まれてもないのに、必要ある?」という疑問を乗り越えて続けていくというのは、相当な苦行です。

事実、二十一世紀の訪れとともに、こういった信念をともなう行為というものは、この世からなくなりました。「時間切れなので、ムダと判定します」ということです。

 

面白くないやつは、徹底的に面白くないまま、どんどんさらに面白くなくなって、一生を終える。苛烈な時代ですねえ。

 

 

それでは最後に、僕が好きな名言をひとつ。

 

“もし人が恐怖から自由になりたいのなら、人は時間から自由にならねばなりません。もし時間がなかったら、人は何の恐怖も抱かないでしょう。それがお分かりでしょうか? もしも明日がなく、今だけしかなかったら、思考の運動としての恐怖は終わるのです。” (クリシュナムルティ)



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このエントリーは、

ルマガ 山本山本佳宏『二十一世紀の未読』

本日配信分の一部を抜粋したものです。

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