「放送作家のなり方は100人いれば100通りある」

 

作家がガキに聞かれる質問の2TOPは、「○○(芸能人)と会ったことある?」ともうひとつ、「どうすれば放送作家になれますか?」なんですが、どうすれば作家になれるかと尋ねれば、作家は100人が100人とも同じように答える。

 

「放送作家のなり方は100人いれば100通りある」

 

そこは100人いれば100通りの答えを言いなさいよ。

ひねりなさいひねりなさいと嘉門達夫に言われながらひねりなさいよ作家のくせに。

 




なり方がどうだろうとどうでもいいんです、今日現在面白いかどうか、面白くないなら僕の指示を忠実に実行できるか。それにしか、当時の僕は興味がありませんでした。

 

何度か申し上げたことがございますが、かつて放送作家の主要な登竜門のひとつとされていたのが、ラジオ番組のハガキ職人、ネタ職人と言われるものでした。

友だちもおらず彼女もできず誰にも相手されず鬱々と日々を過ごし、家に帰れば「俺は面白いんだ、面白い事を考えられる人間だ」とブツブツと自分に言い聞かせてセコセコと芸人さんの深夜ラジオに自信作をしたため送り続ける。悪意ありすぎですか。でもまあそんなもんでしょ。

「俺のネタでこの人たちは爆笑をしてくれた、俺は人より面白い事を考えられる人間なんだ、俺もあっち側で認められるかもしれない、大好きなタレントと一緒に大好きな番組で働けるかもしれない、キラキラできるかもしれない、リア充を見返せるかもしれない」と放送局でタレントの出待ちをし、放送局に雇ってくれとハガキを送り、そのうちの数名は実際に呼ばれて作家見習いとして放送業界にデビューを果たしていく。知らんけども。知らんのかい。

 

 

僕個人の思いとして、放送作家は、放送史の過渡期の狭間に生まれ、散りゆく徒花として、その歪んだ境遇に常に頭を抱えながら生き続ける、業深き人間たちであると思っている部分もございました。自己表現としての創作と、無料の娯楽を全ての日本人に向けて捧げるべき奉仕との間に裂かれる人たち。広告のような商業物が後付けで言い訳するクリエイティブとは、悩みの種類が違うんだと。

 

薄暗いながらも、ミーハー度が高いんですよ。彼らは。意外と。やれナイナイが好きだとか、バナナマンの作家になりたいとか。あのバラエティを俺も作りたいとか。僕には全くない部分だから、当時はすごく憧れました。僕の見習い時代の番組って基本的には朝昼帯の情報番組とかが主だったので、作家見習いの人たちでさえキラキラ見えた。大好きな人の番組に入れて毎日面白い事ばっかり考えて、遅刻した罰でモヒカンにさせられたりして、すごいチームの一員ぽくて楽しそうだなーって。ハガキ職人から作家になったってことは、よっぽどネタ面白かったんだろうなーって。

 

 

何でそんな大昔の話をしているかと言いますと先日Twitterで、「ラジオにメールを送って、『何でこんなにつまらないのが読まれて自分のが読まれないんだ、俺の方が面白いだろうが』という感覚は日に日に強くなる」という、ネタ職人さんらしき方のツイートを目撃して、ああ、まだラジオのネタ職人さんって現存するんだなと思ったからでした。

 

就活もハガキ職人も一緒で、選ばれる側である限り、既存の枠に入れてもらおうとする側である限りは、どうしたってそうなります。これ先週あたりにも書きましたよね。

 

人が人を正しく選ぶことは、不可能です。おっさんおばはんがスキルとか経験とか就活の極意とか、どれだけしたり顔で語ったとしてもです。

正しく選べないから人間はバカだと言っているわけではありません。

万が一バカなのだとすれば、「どれだけ必死に考えても、正しく選ぶことはできない」ということを、いつまでたっても前提にできないおっさんとおばはんがバカなのであり、「どれだけ必死に考えても、正しく選ばれることはできない」ということを、いつまでたっても前提にできない学生がバカなのです。

 

僕は、この世界には絶対的な面白さというものは存在していると信じていますし、面白さは人によって様々だなんて一度も思ったことがありません。思ったことがないという前提で話をしておりますが、全ての業務において正しいとされることは、全て、『偉い人の単なる好み』です。決裁権を持つ人の好みで全て決まる。おっさんらは、この好みに後付けで実に耳触りの良い言い訳をコーティングします。それがおっさんになるということであり、偉くなるということです。誰もが、自分の思い通りにしたい。ただ、「何でも自分の好きなようにする」というのは聞こえが悪いから、「こういった理由でこれが正しい」とすり替える。すり替え続けると、だんだんそれが本当に正しい事のように思えてくる。単なる言い訳のはずだったのに、どれが本当でどれが嘘だったのか分からなくなる。

 

 

低学歴のバカは要らない。これも好み。

ブサイクは全員落とす。これも好み。

陳腐なあるあるネタを嬉々として書くガキは不採用。これも好み。

ワケ分からんこと書いてシュールとか言ってる浅学な低能は不採用。これも好み。

 

 

「全部好みなんだったらどうすればいいんだよおおおおおおおお!!!!!!! 就活の極意必死で読んでた俺はどうすればいいんだよおおおおおおお!!!!!!!! 110ネタ考えるのをノルマにして頑張ってる俺はどうすればいいんだよおおおおおおおお!!!!!!

 

偉くなればいいんです。

権力を持てばいいんです。

それ以上の最適解はない。

会社の人事のおっさんや、番組のスタッフがやけに上から目線であったり偉そうであったりするのは、選ばれる側より権力を持っているからです。彼らより偉くなれば、全ての悩みが解消する。

 

「だから偉くなりたいからこの有名企業に入ろうとしてるんだろおおおおおおお!!!!!! 偉くなりたいから番組に入れてもらって作家になろうとしてるんだろおおおおおおおおお!!!!!!!

 

 

知らんがな。

 

 

就活ならまだしも、社会人から最も遠い存在であるところの放送作家でさえもが、ただ「自分は人より面白いかもしれない」という意味不明の根拠を頼りに金を稼ごうとする存在であるところの放送作家でさえもが、他人に選ばれなければ、職にありつけない。他人に選ばれなければ、偉くなれない。何と言う歪んだ職業なんでしょうか。

 

クリエイティブだとか広告だとか、そういったキラキラ業界に潜り込むためには、例えば就職活動を勝ち抜いて代理店やテレビ局や制作会社にに入らなければなりませんし、例えば手に職をつけたり技能を持ったりしないといけませんが、放送作家というのは、それこそ名乗ったもの勝ちの根無し草です。元暴走族だろうがヤクザだろうがホームレスだろうが中卒だろうが前科者だろうがいじめられっ子だろうが不登校だろうが、誰だってその日からなれる、1ミリも面白くなくたってなれる。

そんな、真っ当な社会人の真反対にあるような業種でさえ、「人に選ばれなきゃなれない」なんていう苦悩があるんだとしたら、もう山奥で壺叩き割るしかないじゃないですか。

 

 

人生のひとつの嗜好品、道端の楽しみと割り切って、面白い事を考えたり投稿したりできる人は幸いである。

自分が面白いか面白くないか。そんな細い細い蜘蛛の糸以外に縋る物のないカンダタのような人間は、どうすればいいんでしょうか。偉くなり方も、人気の取り方も、人との接し方も分からず、ただただ面白いとは何かだけを考え続けるしかない不器用な人たちはどうすればいいんですか。

 

知らんがな。

 

 

家でシコシコとネタを書いて、毎週採用されて笑ってもらい、「こいつ面白いな!」と言われて生まれて初めて自尊心に水が注がれていく。取り柄もなく仲間もおらずクソみたいな思春期を送る僕のような子供にとっては、何物にも代えがたい瞬間です。彼らはその一筋の光に縋るように自らの未来を追い求めて放送作家を目指し、その多くは失敗します。

 

作家業は、己の面白さを発揮してチヤホヤされる職業ではありません。超極端に言えば、全ての国民が望むものを作るお仕事です。誰かと面白さを競いたいなら、芸人になるか芸術家になるかすればいいのですが、そもそも作家の大半は、そんな矢面に立つ勇気など持ち合わせておりませんので、どこにも行けず残念な結果に終わります。

 

家にいながらにして大した労力を使わずそのような体験をできることはかつては限られていて、そのうちのひとつはハガキ職人であったでしょう。しかし今日、顔や声や言動や対人コミュニケーションのキモさを知られることなく評価を得られる手段は、まさにインターネッツの大きな特色のひとつですよね。それこそTwitterやら自前のサイトやらブログやらで、かつてのハガキ職人が得たかった満足感を、もっと様々に、もっと手軽に得ることができる。何よりも、番組のスタッフに採用されないと自分のネタが世に出ないという心配をしなくて済みます。事実、多くの人たちがそっちに流れて行ったはずです。『ボケて』とかはまさにそうですよね。



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このエントリーは、

ルマガ 山本山本佳宏『二十一世紀の未読』

本日配信分の一部を抜粋したものです。

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