2.0が何とか見えないものかと毎年頑張ってみたが、小学校ではいつ計っても1.5だった。目が良いことはほんの少し自慢でもあった。

学年にひとりかふたりは、まさに牛乳瓶の底のような分厚いレンズのメガネをかけている子がいて、彼らはそれをバカにされていた。僕も、あんなカッコの悪い姿にはなりたくなかった。

中学生に入るか入らないかの頃になって、自宅の改築が終わり僕は初めて自分の部屋をあてがわれた。誰に気兼ねすることもなく夜な夜な、ベッドの明かりだけを灯して本やマンガを読んだ。中学での最初の視力検査の結果は0.7だった。

目が悪くなっている自覚はなかったので驚いたし、何より自分の数少ないささやかな自慢のひとつを失ってしまったような気がした。

視力の低下はそれからも止まらなかった。0.7から0.3へ、そして0.1へ。たった数年でズルズルと目は悪くなり、僕はメガネを買うことになった。



 

どこかに、自分の目が悪いと認めたくない気もしていたし、メガネをすることはカッコ悪いという感情も持っていた。メガネは年寄りの象徴でもあった。普段はメガネを制服のポケットに入れ、授業中に黒板を読むときだけ、こそこそとかけた。

 

高校生ともなれば、周囲に目が悪い者も多くなって、視力が悪くてもカッコ悪くないと安心感も増したが、僕はメガネをかけなかった。眉をひそめて目を細め、メンチを切るように人の顔を見た。

部活をしていたので、ボールがボヤけて見えるのは大変だった。何十メートルも先にいるのが、味方の誰なのか。誰がボールを持っているのか。どんな回転でボールが飛んできているのかが分からず、僕はついに、コンタクトレンズに手を出した。

 

メガネのダサさからコンタクトのカッコ良さへの、大地が割れるほどの振れ幅に僕は震えた。最先端の文明の利器を身に着けることにより、やれ目が悪いのは大変だとか、コンタクトが痛くて大変だとか、こんなにも自虐風自慢は楽しむことができるのかと、目からうろこが落ちるようだった。

眼科で言われた、「山本さんは角膜が人よりも大きいから、レンズが取り寄せになってしまいますね」の一言も、僕の自尊心を大いに満たした。僕は目が大きいんだ。人とは違うんだ。特別なんだと。

 

 

コンタクトをし始めても、すっかり習慣づいてしまった目つきの悪さはなかなか治らなかった。破顔して無防備な笑顔を人に見せられるような屈託のなさを少しでも持ち合わせていれば、治ったのかもしれない。

 

泥酔しては落とし、ヘディングしては破りながら、僕のコンタクトレンズ生活は今に至る。視力の低下は日常生活をまともに送れないほどさらに進み、赤信号の丸い球が3つにも4つにも見えるほど乱視も進行して、僕は裸眼では家から一歩も出られない。大事に大事に洗って煮沸してタンパクを除去して恭しく扱うべき財産だったソフトレンズはワンデーの使い捨てレンズに変わって、装着の際うっかり床に落としたレンズは何の躊躇いもなくゴミ箱につまみ落とすようになった。大きいと言われ頬を紅潮させてくれた僕の角膜も、今では当然のように既製品でカバーされ、いつでもどこでも買える普通のサイズであると気づかせてくれた。

 

 

目が無駄に良いとバカだと思われる、とか、目が悪くなって初めて気づく視力の大切さ、とか、そういうことは僕にとってはどうでも良い。自分の目が良かろうが悪かろうが、別にどっちでも良い。最近では、意外と早めに光を失ってしまうのではないかというぼんやりとした感覚はあるが、その時はその時で考える。別にどっちでも良い。ただメガネはダサいので、今でも嫌いだ。できることならかけたくない。顔の一部なわけないだろうが気持ち悪い。

 

裸眼。裸の目。目は露出した内臓である。何と湿り気のある良い響きなんだろうか。

裸眼だと僕は、人の顔に焦点が合わない。数十センチのところまで顔を近づけて初めて、相手の顔がぼやけることなくハッキリと見える。僕はその感覚が好きだ。靄の向こうから相手の姿が突如現れるような、ある種のクライマックスを感じる。そしてそのクライマックスは互いに抱き合わないと得られないような距離で、初めて起こるのだ。

 

本当に必要な人だけを見ていられる。残りの全ての者は背景だ。ピンボケで良い。

 

ポンコツな僕の目は、神様がくれたオートフォーカスを捨て、クローズアップレンズを着けた一眼レフとなった。

光を失っても良いのだ、なぜならすでに抱き合っているからだ。

光を求めるのは、離れている者たちだけだ。





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このエントリーは、

ルマガ 山本山本佳宏『二十一世紀の未読』

本日配信分の一部を抜粋したものです。

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