最近の流行りはなんですか、あれですか。

笑っていいともをダシにしてマイストーリーを開陳するあれですか。自分語りも大変ですね。

よーし、パパもいいともをダシにしてメルマガの文字数埋めちゃうぞー。

 

僕が小中学生のころは、いや高校ぐらいまでかな、笑っていいともは名実ともに国民的番組でした。何と言ったって、平日の真昼間にテレビを観られる人なんて限られているのにも関わらず、そこでどんなことが起こったのか誰もが気になって仕方ないという前提で世の中が動いているわけですから。日曜日のいいとも増刊号はそういう意味ですよね。こんな大事な番組を観られなかった可哀そうな人たちへの救済措置。見てたなー。小さい頃は。誰が誰を紹介するのか知っとかなくちゃと。



 

今は名実ともに、から名だけの存在になってしまいました。あの番組にはものすごいステイタスが今でも当然ある、ということにしておきたい人たちの共同幻想というか、そういうことにしておかないと色んなものがガラガラと崩れてしまうのに気づいていて、それを避けたい人たちの暗黙の了解。

 

テレフォンショッキングに出ることがタレントのステイタスで、花を出して並べるのも恒例のお祭り。ほとんどの業界関係者、特に放送局のデスクの女の子のPCには、笑っていいとものウェブサイトがお気に入り登録されていたはずです。

 

「山本さん、○○ちゃんテレフォンショッキングに明日出ますけど、お花どうしますか?」「一番デカいヤツでお願い。放送局名要らないから番組名デカくして」「局名は外せないと思います」「チッ、じゃあ小さく入れといて」「はい」「この前の花、番組ロゴのアスペクト比おかしかったよ」「ホントですか?」「横にニョーンて伸びてた。次やったら花屋変えるぞって脅しといて」「はーい(もちろん言わない)

 

で翌日、「おい! 何であの花が前っ面に出てウチのが隠れてんの?」「どうでもいいじゃんあんなとこの花、廊下に並べとけよ」「放送局でかく書いたって何の意味もないって何回言えば分かんのかなー」とか言ってワイワイするわけですよね。

 

恒例行事です。ライブ、舞台、そしていいとも。花出し三大行事。

 

文字通り、「視聴者」ではなくなった僕と、笑っていいともの関係性は、花だけでしたし、今はもう、花も関係なくなりました。番組内容の記憶も中学高校生の頃でストップしていますしどうこう言える立場にありません。しかしまあ、すごい番組でした。うすーくおばちゃんたちの気に入りそうな番組目指してスタートしていたら、こんなには続かなかったでしょうね。番組はほっときゃどんどん薄まるしどんどん雑多になっていく。自然の流れです。必ずそうなる。最初からミネラルウォーター作って、もっと味薄めろと言われても何混ぜたらいいか分かんないのと同じで、水にテコを入れると言ったって水は水だから。

 

 

ついでだから時事ネタにユニークな視点で批評して得意げな顔でもしておきますか。毒を食らわば皿まで。

 

 

ルーリードが死んで、相も変わらず訃報乞食が湧き出ております。感情を自分の飾りにしたがる輩。いつものことですね。逆だろと。そんなに好きなら、生きている間に全て捧げきれよと。死んだら無視でいいんです、死んだらその瞬間忘れていいんです。死んだら放置でいいんです。生きているうちに、全部プレゼントしたれよと。

 

マイケルジャクソンの時にもありましたように、故人ビジネス、追悼ビジネスというのは必ずあります。死んだ人を殊更に持ち上げて一儲け。マイケルジャクソンやルーリードやその他の死んだ人が、持ち上げるに値しないと言っているわけではありません。これはいつも申し上げております、アンチ・アニバーサリーの話です。

 

 

(*メルマガ 2012.02.14)

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記念日、アニバーサリーが嫌いだという、アンチ・アニバーサリーなのには理由があってですね。

『帳尻合わせ』に記念日を使う人が結構いらっしゃるからです。

 

1年に1度、その日だけ思い出せばよい、とか、

その日があることによって、他の日の何かから解放される、とか、

そういった類の感情にカチンときてるんでしょうね、きっと。

 

毎日、自分の愛をちゃんと伝え続けている人こそ、

記念日を盛大に迎えるべきだし、本来アニバーサリーはそういう人のためにある。

とりあえず花束とか渡したから、自分はこの人に何かをしてあげたんでOK

という帳尻合わせのために記念日を使うなら、その花は野で咲いたままの方が良い。

 

記念日は、大切な誰かのための日です。

1365日、変わらず大好きだと伝え続けてきた、その相手のための日です。

誕生日は、「また1年生きられました、ありがとう」とみなさんに感謝をする日です。

自分のための日ではない。

 

アンチ・アニバーサリーの中身をめんどくさく解説すると、そういう感じです。

ただ嫌いなわけじゃないんですよ()

 

365日に一度とか彗星じゃないんだから。

そんな目眩がするほど遠い未来まで何かをしないなんて選択肢が、僕たちに残されているんでしょうか。

昨日も一昨日も、明日も明後日も、当然バレンタインです。

企業のステマとか物質文化とかくだらないことを言って人を貶めることに躍起になっている暇は、

僕たちにはとっくに、残されていない。

 

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死は人生最大のアニバーサリーでもあり、同時に、他のアニバーサリーとは全く別のものです。いくら帳尻を合わせようとしたって、彼には絶対に届かない。死んでるんだもん。

死んだ時にだけ思いだし、やれ自分の全てだったやら、もっと評価されるべきだったやら、あげくの果てには「ひとつの時代の終わり」だと嘆いてみせる。アホなんでしょうか。なぜそれを、彼が生きている間に、彼に、全力で、伝えなかったのか。彼の死は彼にとってのアニバーサリーで、あなたにとってのアニバーサリーではない。

 

「○○が好き」という感情は、その好かれた人の所有物です。自分のものでも、ましてや第三者のものでもありません。そんなものをSNSで共有して何になるのか。死んだあとに、その悲しさや寂しさを叫ぶことができるのは、彼の生前に同じ大きさの声で、彼への愛を彼に届け続けた人だけでしょう。あとは全部、不毛な帳尻です。



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このエントリーは、

ルマガ 山本山本佳宏『二十一世紀の未読』

本日配信分の一部を抜粋したものです。

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