台風一過、澄み切った秋の空は高くて怖い。

僕は空を見上げるといつも、天地が逆転して落ちていきそうになります。秋空は、底が果てしない深淵のようだ。怖い。

 

国語のテストで、ですます調と、だである調を混ぜて書くとアホだと思われて減点されますから気をつけろ。

 

知らなかったよー空がこんなにあおーいとーはー

 

怖いから空はちゃんと見れない。



 

以前、Twitterに書いた記憶がありますのは、「曇りは何も命令しないから好き」というツイートでごさいました。

 

晴れも雨も、僕に様々なことを命令します。

目を細めよ、汗をかけ、濡れよ、雨を避けよ。良い天気だと言え、どんよりと沈め。俺を好きとか嫌いとか言え。

そう命令されている気がしてどうも落ち着きません。

雨が好き。とかサブカル女みたいなこと言ってみても、僕の胸に去来するのは窓際のブルマだけ。

 

何をしても、何をしなくても、何を思っても、何を思わなくても、良い。

そう言っているように見える曇りは信用できる。だから好きだ。

 

同時に、どこまでも転落しそうな空から曇りは僕を守ってくれる。ふわりと受け止めてくれそうで、だから好きだ。

 

 

こんな愚にもつかない、MYユニーク感覚自慢をするつもりは全くなかったのですが死ぬまでにどうしても解消しておきたい件がひとつあります、これ以前から言ってますけど。

エレベーターあるでしょ、エレベーター乗ろうとして上とか下とか押して来るのを前で待つじゃないですか。時空歪みませんか?時空歪みませんかは言い過ぎた。床がグイーンと波打ちませんか。波打つのも何か違うな。エレベーターの前に立っているだけなのに、まるでエレベーターに乗っているような上下動と軽い眩みを感じませんか。動くんですよ自分の周りの空気が。エレベーターの前の空間って。これ僕毎回あるんですけど、そんなもんあらへん的な感じで流されてしまうのがどうしても納得できないんですよ。僕みたいな、落花生剥いた後、床で踏まれた殻みたいな何にもない存在が、特殊能力とか強い感受性なんか持っているわけないんです、ないんですってことは絶対に一定数はこのエレベーター前感覚を持っているはずなんです。班にひとりぐらいはいるはずですよ。

なのに、この話を持ち出すと必ず薄く笑って受け流されるのは一体どうした理由なんでしょうか。実は触れてはいけない領域に知らず知らず足を踏み入れ話をしてしまっているんでしょうか。

(ほほう…こいつも、”こっち”の人間か…)的なことを思われているんですか。それとも(もう気づいてしまったか…そろそろ口封じの頃合いだな)的なことを思われているんですか。エレベーター前感覚。立ってるだけでグイーンなるたびに微かな恐怖と不安を感じるあれ。フロアごとどこかに移動しているような。

 

 

これだけ自分のどうでもいい話を垂れ流しておいて、いざ「これって私だけでしょうか」的なメールが届いたら小馬鹿にするんですよ、本当に最低の根性してますよね僕は。ウソですよ小馬鹿にしたりはしません、完全にパクるかもしれませんけど。タチ悪いな。

 

 

あるべき通念、もしくはスタンダードと呼ばれるものと、それに対するアンチで大半の世論は構成されています。

雨に対する思い、季節に覚える感覚。人と毛色が違うことをしようとして、結局はスタンダードの周りをつながれた犬のようにぐるぐると走り続ける。アンチはスタンダードと同様に、古い考え方です。

二十世紀において、「新しい」「斬新」「前代未聞」と言われてきたことの大半は、この『アンチ』でした。

裏を取れば新しい、否定していれば新しい。サブカルチャー、カウンターカルチャー、オルタナティブ。申し上げるまでもなく、それらの名は体を表しています。

 

スタンダードもアンチも否定し、スタンダードもアンチも肯定する。

いや、正確じゃないな。

スタンダードもアンチも、置き去りにする。それだけが新しいと言える。

 

そしたらあれかと。お前は新しかったら何でもええんかと。

古き良きものを否定するのかと。時代を越えて愛されるものの存在を無視するのかと。

先人たちが大切に守り続けてきたものを断絶させるのかと。

 

古いか新しいか。良いか悪いか。誰が愛したか嫌ったか。スタンダードなのかアンチなのか。

そういう価値基準こそが、古いんです。

 

 

何か前号と同じような流れになってきましたね、失礼しました。

 

『代案』では間に合わないんです。

過去と同じ問題提起へのリアクションでは遅すぎるんです。

その問題は、とっくの昔に過去に向かって消え去っていて、「えーっと、その問題の解決策はそうじゃなくてですねー」とか言っているのは、僕たちが否定したがっている嫌いな案よりも、何だったら遅いわけですよね。最初に回答してないから。

 

代案を出さないただの否定はクソである。そんな事実さえも置き去りにしなきゃいけない。クソを抱えたまま飛ぶことはできない。クソを宝石に変えることもできない。僕たちは問題と共に飛び、答えと共に飛ぶのです。

 

 

こんな話はもういいんですよ、もうさんっざん同じことしゃべり倒してきましたからそろそろいい加減やめにしないといけません。

 

 

それにつけても、今日もSNSではおっさんおばはんが元気溌剌でホントにむかつきますねえあいつら。家のティッシュ全部捨てたろうかしら。

 

「まあ結局、1+12なんだよね」

「たしかに!」「いいね!」「目からうろこ!」「みんなにも知ってほしい!」

 

もうこればっかりですよ。SNSの本質とさえ言える。

 

共感欲しさ、イイね欲しさに逆算で毎日ワーワー言うとるわけですよ。逆算ですよ。逆算のなれの果てですよ。本当に伝えなきゃいけないことなんて分かんないから過去の記憶の中で、最もツッコミを受けず攻撃もされず、共感を集めてチヤホヤされたり褒められたりするのは何なのかばっかり考えてる。

 

真実とも事実とも呼びたくないほどの当たり前の中の当たり前の話を飽きもせずカッコつけて呟いて何が共感なんですか。

 

「ほら、長年の見識に支えられた鋭い意見だろう?」「庶民の目線に立った素朴な疑問から生まれる圧倒的シンパシーだろう?」

アホかと。いつまで同じ話をしとんねんと。

そんなもんは、問題も答えもお前も全部まとめてとっくの昔に谷底に落ちて消えとんねんと。

 

イイね!とか拡散希望!とか言ってるおっさんおばはんも完全に同罪なんですけど、それは別に良い。勝手に連れ立って落ちて行ってくれたらいいんですが何度も言います、子供はあんなもの見てはいけません。有害です。親のセックスよりもロリペド漫画よりもよっぽど有害。見てはいけない。

 

本当に子供たちの事を、後世の事を、未来の事を考えているのなら、普段から考え続けているのなら、ダメだって分かるでしょう、自分のやっていることが。絶対に伝えてはいけないものを、断絶しなければならないものを、置き去りにしなければならないものを、己の快楽のためだけに伝えようとしているということに気づくはずです。

 

今週もおっさんおばはんのツイートにむかついたんで、「まあいっかー別に」にならないようにまた書いておこうと思って書きながらまたちらっとTwitter見たら今度はクソガキどものクソツイートばっかり目に入ってきて、こいつらももうダメだろと一瞬思いましたけど、気を取り直して最後まで書いておきました。




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このエントリーは、

ルマガ 山本山本佳宏『二十一世紀の未読』

本日配信分の一部を抜粋したものです。

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