「ネット回線の先にも同じ生身の人間がいるということを、なぜ想像できないのだろう」

 

想像できないのではありません。むしろ、想像できるからこそ、です。

自分に直接的な危害損害が及ばないなら、多くの人間は喜んで嫌いな他人を攻撃します。それはネットがなかった時代から、そうです。インターネットはただの道具。僕もあなたも、生身の人間と直接顔を合わせずに済むからラッキーだなあと思いながら、やっているんです。

想像できずにやっているのは、ただの狂人です。論じる必要がありません。

 

直接的な危害の中には、「私だけがこいつを攻撃しているんじゃないか」という不安も含まれていますよね。

つまり、「あいつもこいつも私と同じように考えている、つまり彼を攻撃しているのは私だけではない、むしろこれは聖戦なのだ」という逃げ道があるのなら、なおさら喜んで攻撃します。

 




 

そしてもう一つ言えば、ネットは常にお祭りだということです。

ただのお祭りじゃなくて、ある種の仮面舞踏会というか、秘密パーティというか。

身分や格差に汲々とし、ウンコのような顔をして日々を過ごす人たちが、全ての苦痛やしがらみを忘れ踊り狂う刹那の宴。

あまりにもベタな、ハレとケの話でもあります。ハレとケとか祝祭とか使ってると賢そうに思ってもらえますから意味が良く分からなくても、「それってさー、結局、ハレとケなんだよね」的な具合に使っていきましょう。僕も積極的に狙っていきたいと思います。

 

ハレとケは表裏一体です。非日常と日常はワンセット。どちらを欠かすこともできない。

柳田國男は、近代化によって日本における、ハレとケの線引きが曖昧になってきていると指摘しました。特別な日だけに食べるもの、着るもの、行うこと。それが日常に侵食し、境界線がなくなりつつあると。

彼がそれを言ったのがいつごろなのかは調べていないので全く分かりませんけれども、当然二十一世紀において、ハレとケの区別の曖昧化は、加速しています。非日常として、晴れの日だけの特別な儀式として行われてきたことは、今日、いつでもどこでも簡単に当たり前にできるようになっています。かつてに比べれば毎日が祭りのようなものですよね。

ハレのケ化とでも言いますか。

 

ハレがなくなる。非日常がなくなる。手に入れたいと願うものを実際に手に入れられるようにし、あえて手にしなかったものさえ手に入れて、僕たちは願望を食い尽くした。

 

祭りが日常化し、祭りは祭りでなくなった。今まで通りの生活で、非日常の快感を味わうことができなくなった。自ら祭りを放棄した僕たちは祭りを探して彷徨うことになった。

ハレとケは一体のものなのに、僕たちはケがない所に、日常がないところに、祭りを作り出すようになった。

 

社会集団での毎日の鬱憤をガス抜きして一体感を再認識するはずのハレが、自分の社会集団とは無関係に行われる。

顔を隠し名前を隠し所在を隠して行われる祭りは、土台としての「コミュニティの一体感」という火種を持たない。

着火剤だけが燃えて、終わり。せっかく見つけたハレにもすぐ飽きて、そこには何も残らない。僕たちは新たなハレを探す。

燃やす、飽きる、探す、燃やす、飽きる、探すの高速ループ。

 

 

僕は他人を攻撃するな、などと誰かに忠告することはできません。無理です。ネット社会において、それが加速することも十分予測できたことです。ネットに善意も悪意もない。ただの増幅装置、加速装置だ。

ネットに悪意が溢れているのではない。元々僕たちが、悪意を沸々と煮えたぎらせる人間であっただけだ。

 

僕たちはどこでもドアを開けて、そこにいるヤツの後頭部をぶん殴り、ドアを閉める。二十一世紀のピンポンダッシュ。

かつては集団に紛れて他人に石を投げつけ、日ごろの鬱憤を晴らしていたが、今は集団に隠れなくとも、身元を明かさずに石を好きなだけ投げつけることができる。

 

特別なもの、得難いものを、次々と僕たちは手に入れ、特別なもので無くしてきました。ハレの日はもう来ない。赤飯は毎日食べられるし、ドレスを毎夜着ることもできる。宴は昼夜を問わずあらゆる所で開かれている。

 

 

インターネットは僕たちの生活に根付き、一見、日常の光景のように見えています。しかし僕たちがネットに求めているのは、日常ではなく、非日常であり、祭りでした。日々鬱屈した生活を送りつつ指折り数えて待たなくても良い、最低限のルールさえ無視しても自分に不利益が及ばない祭りが、ネットにはあると気づいてしまった。

 

「ネット回線の先にも同じ生身の人間がいるということを、なぜ想像できないのだろう」

 

顔を合わせずにすむ、自分とは日常の利害を分け合わない、「生身の人間」がいる。そんなことは分かっている。

僕たちの行動原理が、「これやったら、相手が嫌な思いをするかもな」ではなく、「これやっても、自分は嫌な思いをしなくて済むかもな」であることが露呈したに過ぎない。

 

 

日常とは、自分個人の毎日を指すのではありません。僕たちが所属する社会集団の毎日のことです。非日常も同様です。つまり、自分ひとりで体感するもの、その社会集団から離れて体感するものは、日常とも、非日常とも呼ばない。ハレでもケでもない。「生態」です。ただの。

 

ハレとケが時間からも場所からも解放された今日、僕たちの日常はどこにあるのか、非日常はどこにあるのか。

ネットは日常か、それとも非日常か。

ネットに祭りはあるのか。祭りの後に残るものは何か。



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このエントリーは、

ルマガ 山本山本佳宏『二十一世紀の未読』

本日配信分の一部を抜粋したものです。

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