誰にだってできる、代わりがいくらでもいるような事を、誰にでもできるレベルで行うことに、誇りとか喜びを感じることは難しいのかなと、ずっと考えておりました。
みなさんも薄々勘付いていらっしゃるとおり、僕たちは替えが利く存在です。自分でなくてはならないことはない。自分にできることは、他の誰かもできる。代わりはいくらでもいる。突然いなくなったって特に困らないし、何とかなる。
替えが利く、利かない、という感覚は、他人と関わりを持ちながら生きていく限りは付いて回ります。
とは言え、「自分は替えの利かない、特別な存在であると他人から認められたい、可能であればできるだけ多くの人に」という欲求から離れることはなかなかできない。そして人生の大半を、その矛盾、その乖離に心を奪われて過ごします。
僕たちは替えが利きます。替えが利く存在です。一メンツであり歯車であり雑魚キャラでありエキストラであり。
その現実にショックを受け、その現実を拒絶し、その現実に怒り、その現実を少しでもマシにする策を探り、それも無理だと分かって落ち込み、最後には仕方なく受け入れて死んで行く。余命宣告のようですね。しんどい人生です。
自分が今していること、もしくは、やりたいと思っていること、もしくは、憧れる誰かがやっていることが、かけがえのないオンリーワンのもの、というのは幻想です。それらは全て、替えが利く。誰でもできるものです。
と、いうことは、「俺、今誰にもできないかけがえのないオンリーワンのことやってるぜー!」と思い、周囲からも思われている人がいたとしても、それは単なる勘違いであるということになります。
全ての人が、代替可能なことを、『偶然』やっています。
運命ではありません、これは偶然です。
「私のように何の才能もなく、誰にでもできるクソみたいな仕事に従事している恵まれない人間がいる一方で、あいつは生まれ育ちにも才能にも恵まれて、オンリーワンの仕事をしてチヤホヤされてるじゃないの、どこが偶然なのよ!」
世界は、徹頭徹尾100%不平等である、という意味で平等です。
「恵まれない人にチャンスを」「生まれ育ちの良い恵まれた人にはハンデを」
そんな恣意的な差配の、どこが平等なんでしょうか。むしろ不平等の極みでしょう。
一分の偏りもない、ある種の冷徹さえ漂うほどの不平等さ。それが、この世は平等である、ということの真意です。
恵まれない人がチャンスを得るか、イモ引いてクソのような人生を送るか。その二つの確率は、平等です。
「俺は今、自分にだけしかできない、替えの利かないことをやっているぜ!」と自ら思い、他人からもそう思われていたとしても、それは勘違いです。当然彼の代わりも、いくらだっている。
全ての人が偶然、今の仕事や業務に従事し、それを誰にでもできるとかできないとか言って、一喜一憂している。そしてそれらは平等に、『誰にだってできる』。全部をガラガラポンしたって、世の中は特に何も変わらない。
全てのことは、誰にだってできる。そう思えないのはやったことがないから。二つを試してみる時間が人生にはないから。それだけの理由です。
そんなものに、いちいちやりがいとか喜びとかを尺度に持ち出して一喜一憂すること自体が不幸なのかもしれません。
あなたは土方かもしれないしJAにヒーヒー言わされる農家かもしれないしベルトコンベアで流れてくる肉をぶっ叩くだけの毎日かもしれない。あなたはクリエイティブディレクターかもしれないし主婦かもしれないし画家かもしれない。
あなたはデイトレーダーかもしれないし俳優かもしれないし皇潤のドキュメンタリーを作っているかもしれない。
それらの人たちの中で、他の誰にもできない、替えの利かないことをやっている人は、ひとりもいません。
誰にでもできることなんかしたくない、自分にだけ、自分にしかできないことをやりたい。なぜそう思うのかというと、やりがいとか誇りとかではなくて、「自分にしかできないことをする」というのは、褒められることに最も近い、と思っているからですよね。誰でもできるようなことをしていては、なかなか褒められない、チヤホヤされない、認めてもらえないんじゃないか。
人は、替えの利かない、特別な存在であること。それそのものが欲しいのではない。この世にありもしない、『当たりクジ』を欲しがっているだけなのです。そこに不安や苛立ちや苦悩が生まれる。
母であっても代替可能です。
母の役割の代わりは、いくらでもいる。誰にだってできます。あなたがいなくても子はそれなりに育つ。
「かけがえのない存在」というのは、母が子に対して抱く感情であり、母にとっての事実です。子供がそう思っているか、子供にとっての事実なのかは、問題ではありません。
母にとって子が、なぜ「かけがえのない存在」なのか。その理由はただひとつです。望んで産んだからです。
欲求が偶然を、必然とまで呼ばせるほどに変えた。
自分がかけがえのない存在であることに喜びや誇りや幸せを感じているのではありません。
誰かを、かけがえのない存在と呼ぶことができることに感じている。
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メルマガ 山本山本佳宏『二十一世紀の未読』
本日配信分の一部を抜粋したものです。
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