上に一枚薄手のものを羽織り厨が湧く季節になりました。皆様におかれましては、益々ご健勝のこととお慶び申し上げます。

 

上に一枚薄手のものを羽織り厨は季節を問わず事あるごとに一枚羽織る一枚羽織ると言いたがって非常に耳障りなのですが、真夏の間だけは相手にされないので渋々黙っています。秋口に入れば今までの鬱憤を晴らすかのように上に一枚羽織る季節上に一枚羽織る季節と押し付けがましく鳴き始めますのでお気を付け下さいませ。お前の重ね着の枚数なんか知るか。ナンチャッテ重ね着の編み上げ英字Tシャツでも着とけと。

 



 

なぜ自分がプリプリしているのかは全く思い出せませんが、上に一枚薄手のものを羽織り厨で少し昔のニュースを思い出しました。

ロシアには、気温が5℃を越えると死んでしまう男性がいるそうです。デブかな?

デブにしても極端すぎるだろと、思ったらやっぱりそうではなくて、そういう特異体質らしい。

ロシアでも白海に面するアルハンゲルスクという、夏の平均気温でさえ10℃程度の極寒の町で、冷蔵庫の中に入って10年以上生活しているそうです。

ロシアで冷蔵庫の中で寝起きしてるって、めちゃくちゃでしょ。でも5℃を越えたら死ぬんだから仕方ない。

 

僕は当時のメモを見て書いているだけなのですが、ググったら何か記事出てきませんかね?

 

その男性はある日、非常に稀な代謝障害を発症しました。日射病で倒れて病院に運ばれた際の検査で、気温が5℃を越えると、体温の調節ができずに、死の危険があることが分かったそうです。5℃て。

 

常に5℃以下で、しかも当然日光など浴びられない環境でしか生きられないと知った彼は、先ほど書いた極寒の町へ移住し、そこに巨大な冷蔵庫を建設して、その中で寝起きし仕事(電話セールス)も生活も行うことを決断しました。

ちなみに結婚して小さな息子もいたらしいです。息子がパパとおしゃべりするためには、真夏であってもコートを着て冷蔵庫の中に入っていかなきゃいけない。どんな気分なんでしょうね。パパが冷蔵庫の外に出てくるのは、真冬の夜、気温が5℃を下回った時だけです。

 

「ママ、今日は寒いねー」ゴゴゴゴゴゴ「あっ!冷蔵庫が開いた!」

ドワナクローズマイア――イ ドワナフォースリーコーザミシューベー

 

上に一枚羽織るどころの話じゃない。

 

 

こういったお話について、当然僕にとっては他人事ですから同情を覚えることはありません。興味と好奇心しかない。このパパに寒いっていう感覚はあるのかなとか、実はすっごい寒いけど死ぬよりマシだからやせ我慢しているんじゃないかとか、夫婦の夜の生活はどうしてるのかとか、その冷蔵庫の構造はどうなってるのかとか、停電した時の対策とか、ブレーカー落ちた時にハアハア言いながら配電盤に向かう映画はブルースウィリスがやるのかとか、息子思いっきりグレたら面白いなとか、まあそういったことです。考えるのは。

 

ドラマではレイプもホモも人殺しも何でも扱うことが許されて、コントで同じ事やったら不謹慎とか反社会的とか教育上良くないとか言われてしまう。しかつめらしい顔で扱えば善、笑いにしようとすれば悪。何かマジメに考えてくれてそうだから善、バカにしてそうだから悪。同情してくれているから善、慰めてくれないから悪。

何が差別なのかって、まさにこれが差別だと思いますけどね。暴動起こしてもいいレベルの差別。

相手のことを真剣に考えるっていうのは、「これをやったら怒るかな」だけじゃないだろというシンプルな事実からは目を背け、相手の機嫌に配慮していますというポーズや記号を送受信すればそれでOK、というのは、明白な差別ですよ。

 

「病気かわいそう」っていうのと上記の好奇心の、どちらが相手に向き合い相手を知ろうとしているのか、という問いへの答えに、笑いに勝るもの無し、なんてことを言うつもりは毛頭ありません。対決させる尺度がそもそもおかしくないですか、ということを申し上げているだけです。

 

もちろん僕もオドオドとした内気な男ですから、「じゃあお前、そのロシア人の前に行って同じこと言えるのかよ」と問われれば、ほぼ間違いなくエヘヘへとか意味不明にニヤついて棒立ちしているだけに終わるのでしょうきっと。「大変ですね頑張ってください」とか言って。しょうがないですよ、コマンドサンボで首の骨折られたら嫌だもん。

ただ、僕にとって、最も正面から彼と向き合うことができるのは、「めちゃくちゃ面白いですね」という点においてです。「かわいそうー大変じゃないですかー」という点で、彼と向き合う自信は全くありません。なぜなら、彼と僕は赤の他人だからです。彼の面倒を見ることはできない。

 

世の中には、僕とは違って「かわいそうー大変ですねー同情するー」が、赤の他人と最も正面から向き合う感情であるという方がいらっしゃるかもしれない。それはもちろん否定しませんし尊敬します。しかしそれらの方が、僕のような人間のやり方を否定し攻撃するのは、同情系の方々が最も忌み嫌うはずの差別じゃないんですかと思う。

 

僕自身は他人からの同情や憐みが、僕の心の安寧をもたらすとは思えません。自らの傷を笑い合い、相手の傷を笑い合い、時にはまだ乾燥していないかさぶたに無理やり手を突っ込み突っ込まれ出血する瞬間に、よりそれを感じることができます。

 

僕はあんまり地域差とか風土とかに色んなことの要因を求めるのが好きではありませんし、大阪とか関西が地域として面白いとか笑いにうるさいとか思ったことが一度もありません、これは何度も申し上げておりますよね。面白くない人は大阪を含む全国どこでも一定の割合で存在します。大阪が特別に面白いとか面白くないとかではなくて、それにも関わらず勘違いして声高に笑いの話をするのがうっとうしい。

 

そう思ってはいるのですが、自虐と他虐を平等に行い、どうやったってクソのような人生を、そのブライターサイドを見つめることによって何とか笑い飛ばして生き抜こうとする素養には、やはり少し地域差があるんじゃないかと最近は思っています。

 

「そうよそうよ、気の置けない何でも言い合える仲間って最高だよね!」

っていうのは、もはや何の意味も持たない言葉ですが、なぜ意味を持たなくなってしまったのかというと、「仲間以外からのそういったアクセスを拒絶します」ということになっていったからですよね。加速と分裂の二十一世紀。崖の両側から鬼の形相でウンコを投げ合う僕たち。

本来の意味合いは別にして、関西人どもの少ない長所のうちのひとつは、この訓練が生活の中である程度なされていることにあります。東北に限らないですけれども田舎や、カッペの坩堝である東京において、自分の傷を笑うことは露出狂、他人の傷を笑うことは攻撃だとみなされ排除されがちです。共感や同情、憐みといった記号の下に隠れて息を潜める。

 

傷に触れるな、人を馬鹿にするな、見下すな、不快感を起こさせるなと。自分の傷を笑われることと、自分がバカにされることをイコールで結んでしまった悲劇の行く末はどこなんでしょうか。



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このエントリーは、

ルマガ 山本山本佳宏『二十一世紀の未読』

本日配信分の一部を抜粋したものです。

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