昔は、すぐにイライラするけどすぐに忘れる、分かりやすいバカタイプなんじゃないかと自己分析していました。
いつも申し上げております通り、自分で自分を分析することなど、他人を分析するのと同様に不可能なんですけれども、そんなことに気づきもせず、あの日の僕は。
当然のように、自分の中に、鈍重でおっとりしているくせに、後々までネチネチと引きずる面があることも発見しまして、自分の分析など意味がないと悟りました。性格なんてどうでもいいんですよ。自分のも他人のも。
それはさておき、前号で何に怒っていたのかというと、全然謝らないアメリカのテレビドラマに対してでした。
犯罪者が、とか特殊能力者が、とかじゃないですよ。会社に勤める同僚やチームの間での話です。謝れよ。ごめんって言え。ごめんで済む間にごめんって言え。次からはもうしません、繰り返さないためにこのような対策を講じました、って言え。じゃないとまた次も同じことするという意志表示とみなすぞ。ごめんと言わない不作為が、意図的な悪意であると受け取られても構わないという表明だと分かってるんだな、よろしい、ならば戦争だ。
よし、良い感じに怒ってきましたよ。何の話でしたっけ。ドラマか。
何ていうんでしょう、わりとこう、チームとか会社のルールをものともしないというか、平気で破る、一匹狼の主人公に周囲は振り回される、みたいなの多くないですか、良く知らないですけど。ルール無視の型破りな行動に周囲は反発するが、最終的には主人公の行動が正しい、もしくは良い結果を生む、みたいなパターンっていうんですか、そういうの。
主人公たちは信念をなかなか曲げません。自分を信じ、命令や制約をはねつけ、迎合することを嫌い、時には怒りさえ見せます。一応、視聴者的には、「そうだそうだ!いいぞ痛快だ!」と言うポイントなんだと思いますが、いつも僕が違和感を覚えるのは、彼らは、組織の外、会社の外に出るという選択肢を1ミリも持ち合わせていないところです。
ルールに従うのは嫌だ、上司の命令を聞くのは嫌だ、自分は自分の信念にのっとって正しいと思ったことをやる、と。
毎回そんな調子なのに、絶対に会社員であることをやめない。雇われた結果、得られた地位を利用して好き勝手に振る舞っているのにも関わらず、偉そう。そんなやつばっかり。頭おかしいんじゃないですかねアメ公って。やだーアメ公とか言っちゃったーやばいやばい。
好き勝手やれているのは会社がケツを拭いているからです。
会社員として雇われることによって業務に対する責任の大半を負わずにすんでいる、という大前提がハナから頭にない。
ルール無視の一匹狼でいたいのに、給与受給者であることを辞める選択肢が頭にない、って、おかしくないですか。アメリカ人って、そういうの抜け落ちてるんですかね。もしくは、視聴者は、自分のやれないことをやってくれる主人公を見てストレス発散できているのかしら。謎です。僕は「ええからお前もう辞めろや」としか思えませんでした。
日本のドラマは、どうなんですかね?見てないから比較できないので残念なんですけど。
型破り、とか、固定観念を打破する革命児、とかは、日本人も好きですよね。オロオロする守旧派見て鬱憤を晴らす、みたいな。
革命児でも風雲児でも何でもいいんですけど、その打破する力が打破しようとしている相手から与えられているものであると自覚しろと。その会社の社章あるから偉そうにしてるんだろと。その免許があること前提で暴れられてるんだろと。
そればっかり気になりますね。ドラマ見てて。結局誰かに飼われること前提にしかできないダサ坊だと自覚しなさいよ。懸命に組織にしがみついて生きている人のほうがよっぽどかっこいい。
たまにドラマを見ますと、このように偏った感想ばかり溢れ出ます。これもまあ、楽しんでいる証拠なんでしょうね。
最近の海外ドラマって、能力に秀でたスペシャルな人たち、異能者とも言うかもしれませんが、彼らがその能力を生かしてバリバリ大活躍するタイプ多いですし、僕もそういうの好きなので楽しいです。日本のように黙っていても読み合えるような空気が希薄であろう中、製作されていますので、どんな複雑な人間ドラマであっても、大層記号的で、すごく気楽に観れます。日本のドラマはどこか持て余し気味ですよね。最大公約数の大きさを。デカい共通認識を抱えたまま細分化しつつあるので、どこに向かえばいいか分かんなくなってるんでしょう。それもまた一興ですけど。
無能な平凡野郎がなぜか努力もしないでモテまくるとか、無能な平凡野郎がなぜか努力もしないで異能を突然授かり活躍する、みたいのは、よくあるオタの夢の現出ですけど、もともと才能のあった人が正当な努力やプロセスを経て世に出て活躍する、という、ある意味ではライトノベルから最も遠いニュアンスを、アメリカのドラマはやれているのかもしれない。ラノベの定義は良く知らないですけど。
僕もどっちかというと、娯楽としてのドラマには幼稚な非日常を求めがちですので、どちらかを批判するような身分ではございません。
ああ、せっかく怒っていたのに。大人しいまとめ方。こういうところがダメですね。
何の話でしたっけ。
「わざとやったわけじゃないから謝らない」「悪気があったわけじゃないから謝らない」というのは、ひとつの論法だと思いますけど、逆でしょそれは。さっきも書きましたけど。悪気があるから謝らない、のほうが正しいでしょ。「いつでもやったんぞお前ボケコラかかってこい」と思っているから謝らない。悪気はなかったのに不快な気持ちにさせた、誤解されたから、謝る。
「あたし何にも悪い事してないのに、何で謝らなきゃいけないんですか」
アホなんでしょうか。
行為の善悪と、意図の善悪を取り違えるなと。
僕も恥ずかしながら人並みに仕事上のストレスを抱えて生きておりましたけども、代表的な発散方法というか代償行為が二つあります。
ひとつは、爪切りですね。まあ切る。すごい切る。仕事場で切る。
僕キーボード打つときに爪の先がカチカチ当たるの大嫌いなんですよ、それもあって、爪の先の白い伸びている部分が少しでもあるとまあ切る。すごい切る。これはこれでストレス発散なんだろうなと思いながら切っています。中毒ですね。
爪切りはどうでもいいんですけど、もうひとつは、くしゃみですね。僕はそもそも仕事以外で人と会話したい欲求が非常に薄いので無言タイムが長いんですけど、仕事でも物を書いている間は当然しゃべりません。それが鬱積しているのか何なのか、くしゃみの声が非常にデカい。半分わざとですけど。くしゃみに乗じて鬨の声上げる感じです。いくさかな?
完全にでかい声ぶっ放してストレスを解消しようとしているんですけども、くしゃみと必ずセットになっておりますのがですね、謝罪です。
「おあああああっしょ――――――い!!!!!!!」 ⇒ 「…すいません」
必ず謝る。仕事中に大きい声を出してすみません、という謝罪です。
悪意はありません、誰かを驚かせてやろうとか迷惑をかけてやろうとか己の存在を主張しようとか、そういった思いは全くないのです、単なるストレスからくる大くしゃみですので。だから謝る。もし僕に悪意があれば謝りません。何てショボイ例文なんでしょうか。くしゃみて。
"悪意がなかった のに 損害を与えた"場合は、謝れよ。
「俺悪くないし」という、古来より伝わる言い訳をやめろ。
というのが、『真・謝れよ』の結論ですか。
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メルマガ 山本山本佳宏『二十一世紀の未読』
本日配信分の一部を抜粋したものです。
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