例えば、放送作家の入門編と言いますか、基礎業務のひとつに、「つくりハガキ」「つくりメール」というものがあります。

業界用語() や裏事情() が大好きな方々にはとっくの昔から有名なものでございますが、読んで字のごとく、番組に届く視聴者からのハガキやメールを、『作る』、もしくは『創る』ことです。シンプルなやらせです。

 

つくりメールには、視聴者から届くメールが全部つまんない、もしくはキモイ常連からキモイメールしか届かないから紹介したくない、という消極的事情がある場合。そして、制作者が考えている演出をメールを使用して実現したいが、そのようなメールが来る偶然を待つようなギャンブルはできないので、事前に作っておく。もしくは、「もうメールがいっぱい届いてるよみんなも送って!」というメール応募の呼び水となるように作る、積極的事情がある場合。ふたつあります。



 

僕も2002年とか2003年ぐらいまでは、当然のようにガンガンつくっていました。

 

制作者や出演者の意図ややりたいこと、望んでいるものを最も汲み取り、最もリアルタイムに反映させることができるのは誰でしょう。制作者自身、つまり僕です。

一般的に面白いとされるもの、共感を生むもの、共通項の多いもの、不快感を生まないもの、公序良俗に反しないもの、を総合的に判断する訓練を受けているのは誰でしょう。それは僕です。

事前に、どのようなテーマ、どのような企画が発信されるかを知っていて、それに対する準備期間がたっぷりあるのは誰でしょう。その企画を考えた本人、つまり僕です。

 

そんなの、僕が書くメールの方が面白いし採用されるに決まってるじゃないですか。自明ですよ。だってチートなんだもん。

 

特にラジオの作家見習いは、時として、そんな「つくりメール」ばっかり作らされるような苦行をおこなうこともあります。で、「作家のくせに、リスナーから届いたメールのほうが面白いじゃねーか」「お前の混ぜても全然採用されてないだろ」「お前みたいな生ゴミは今すぐ辞めろ」と罵られながら、覚えていくわけですよね。何を。面白さを、じゃないですよ。作家になったからって面白くなっていくことはありません。面白さは成長しません。

 

外野席で屁をこきながら、俺の方が上手くやれる、私の方が面白い、何でそんなつまらなくなるのと、今まではさんざん言っていて、いざバッターボックスに入るとなった瞬間に、抱えきれないほどの、そしてすべてが今まで見たこともないような資料を渡され、プレイするにあたっては、ここに書かれていることを全て理解し順守してくださいと言われる。「え、みんなこんなルール守りながらやってたんすか?」と。

もちろん、それを守ることと面白さは無関係です。ただし、守らないなら、ここにいる必要はないんだから出て行ってください、というだけです。制作者は、表から見えないがんじがらめのルールをかいくぐって番組を作る。そしてこのことは、当然他のお仕事においてもそうです。相互想像力の欠如によって、僕らは互いに、外野から屁をこき合う。

 

番組がどのように作られるのか。お金はどこから出ているのか。誰に向けて放送しているのか。なぜ実質無料で娯楽を提供しているのか。なぜ放送免許によって守られているのか。表現の自由とは何か。報道の自由とは何か。民間放送とは何か。放送禁止用語とは何か。スポンサーとは何か。文化とは何か。

 

少しずつ覚えていく。

 

覚えることの中にはもちろん、先ほど申し上げたような、「みんなはどう思うかな?」を判断するスキルも含まれます。

自らが面白いか否か、自らが感動的なものを作れるか否か、ではなく、それを見た人が面白いと思うか、感動するか、もしそうだとしてそれはどのように、どの程度なのか。それを逆算して、制作する。

 

だからこそ制作は創作ではないし創作である必要がありません。

限られた知識と限られた判断材料の中で繰り返される再生産の産物、類型化された制作物でいいのです。

問題にすべきなのは、視聴者がいかに楽しんでくれるか、感動してくれるか、見て良かったと思ってくれるか。

ひたすら『共感』を目指すものです。



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このエントリーは、

ルマガ 山本山本佳宏『二十一世紀の未読』

本日配信分の一部を抜粋したものです。

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