フランスの近代抒情詩の祖とも呼ばれる、ラマルティーヌという詩人がいます。いました。1800年代前半。

彼は、名作と呼ばれた自らの一篇の詩について、「ある嵐の夜に森の中で、突如閃いて一気に書いた」と解説していました。さすがはラマルティーヌと。それはすごいと。いうことだったんですけども彼の没後、その詩の原稿が発見され、その原稿には、とんでもない数の訂正と推敲が記されていたそうです。「ひらめきの傑作」ではなくて、「ウンウン唸り続けてひねりだした傑作」だったと。

 

こんな恥ずかしいことありますか?() ラマルティーヌかわいそう。 自殺した中学生がこっそり書いてたポエムを追悼ラップにして発表するのと同じレベルで死体蹴りですよこれは() だまっといたれよ。かわいそうに。




ご先祖の供養とか亡くなった人の魂とか想いとか言っているくせに、僕らは一方で、死人に口なしとばかりに平気で自分の欲求充足のために思うまま死人を扱います。あいつ生きてたら恥ずかしいって言うだろうから言うのやめといてやろうって、ちょっとぐらい思えよ() 作家にもドナーカードみたいなの必要ですよね。生前意思表明。「これとこれとこれは発表することを禁ずる」的な。とか言って、芥川龍之介も公開するなって書いた遺書思いっきり公開されてますし、今後も死体蹴りは永遠に続くんでしょう。ハードディスク抱えて象みたいに墓場に消えて行くしかありませんね。

 

 

さて、僕がこのかあいそうかあいそうなラマルティーヌの話を知ったのは、ウンベルト・エコというイタリアの作家の本です。このラマルティーヌの逸話と共に、彼はこう記しています。

 

“いかに書いたかを語ることと、"上手に"書いたことを証明することとは、別なのだ。”

 

閃いたからすごい、努力したからすごい、作法に則っているからすごい、型破りだからすごい。

作品のすごさは、そんなこととは無関係であると。

無関係である、というのは、否定しているわけではありません。

プロセスなんかどうだっていいだろ、という意味です。

結果がすごいから、すごい。

当たり前に聞こえますか。だとしたら、この世に、この当たり前を実現している人が何人いるんですか。

 

 

“芸術的過程についてのもっとも開明的なページの多くは、ヴァザーリ、ホレーシオ・グリーナフ、アーロン・コプランドといった、自らはささやかな作品しか生みださなかった、自らの作業方法については極めてよく省察することのできたマイナーな芸術家たちによって書かれてきたのである。“

 

何か小難しい名前が並んでいますが、この文章が言っていることは、新しいクリエイティブを生む新たな作業のプロセスを明確に解説した素晴らしい芸術家たち自身の作品は、時としてクソつまんなかった、ということです。

あんまりこの部分ばかりが取り上げられると一部のクリエイターやアーティストのみなさんに曲解されかねないので改めて補足しますが、言葉でプロセスを説明できるか、できないかは、作品の素晴らしさとは全く関係ないということです。つまり、「俺の音楽はひらめきだ、俺には音楽でしか表現できないんだ」という人の曲がウンコである可能性だって、等しくあると、ウンベルト・エコは告げている。

 

 

ここに書かれていることは、全て、二十世紀までに起こってきたことです。非常に、悠長で緩慢で、油断している。プロセスとか方法とかの話を、まともにテーマとして語っている時点で、遅すぎる。もう二十一世紀です。




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このエントリーは、

ルマガ 山本山本佳宏『二十一世紀の未読』

本日配信分の一部を抜粋したものです。

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