雨がやんでも風はぬるく空は曇る七月の夕暮れ、三日月は西の空に沈もうとしている。

雨上がり独特の色褪せた明るさが重くのしかかるが月の周りだけは陰陽の輪郭が鮮やかに持ち上がり、却って夜の暗さを教えてくれた。

僕は月にすがって歩く。

 

 

高校の時、通っていた予備校の英語の講義で和文英訳の問題が出た。

 

花鳥風月。

英語で何と言う。



 

"the nature"。自然。これをスパッと訳せるヤツが京大に入る。訳せなくても東大には入れる。"flowers and birds and winds and the moon"とか書くしかないヤツはどこにも通らない」

 

講師はそう言った。

当時の僕は、この話を『センス』の話だと思って聞いていた。勉強ができるかできないかと、センスの有無は別物なのだと、講師は言っているように聞こえたし、僕は自分自身にセンスがあると信じたかった。

 

 

僕はかつてスピードを求め、加速を求めた。

難解な表現、多様な解釈ができる単語を使うことを、できるだけ避けたかった。

それは嗜好の問題ではなくて、ひとつの言葉をゆっくりと舌の上を転がしたり、談義の肴にして楽しんだり、言葉遊びで快感を得るような時間はもうないと感じていたからだ。人によって解釈は様々、という、お花畑で過ごす休日のような余裕はもうないんだと。

 

そもそも、それは僕が本来考えている、『言葉』の使い方とは真逆のものだった。

言葉はただの道具であって、発する者の魂こそが本当の『意味』を決める。

言葉を見るのではなく、その上に乗っているものを見なければならないと。

 

それを曲げて僕は、ひとつの言葉にひとつの意味を乗せようとした。できるだけ早く、できるだけ確実に書くために。『好き』の上には『好き』という意味だけを乗せる。『馬鹿』という言葉の上には『馬鹿』という意味だけを乗せる。それは無謀な挑戦でもあった。

 

 

しかし振り返ってみると結局それらの言葉は、「考えていることを、もっともっと迅速確実に届けたい」という、僕の気持ちを乗せて届いてしまった。『好き』という言葉にも、『馬鹿』という言葉にも、「考えていることを、もっともっと迅速確実に届けたい」という、僕が目指していない意味を乗せていた。当たり前の結果だが。

 

僕はもう、加速を伝えることも、迅速確実に本当のことを伝えたいという気持ちも、持っていない。それは過去のある一点において僕が抱いていた希望で、今、僕は誰かが加速することも、言葉に固有の意味を定着させることも望んでいない。それは昔の話だ。昔の話ということは、あったかどうかさえ誰にも分からない話、ということだ。

 

 

 

花鳥風月なんていう風流な言葉を、ザ・ネイチャーなどという身も蓋もない名詞に変換してそれが正解だなんて、粋じゃないね、とは思わないし、日本語には趣きがあって良い、英語は情緒がないからダメだ、とも思わない。

それぞれの言葉に、それぞれの長所がある、という思考停止にも陥ったことはない。

言葉から言葉へ、全く違う言葉の上に移されて、時には捻じれ、時には歪んで誰かの下に届く魂の、その舞い方。

情緒があるのだとすれば、その舞いにこそあるのだ。

日本語と英語、だけではなく、僕と誰かが話す、二つの日本語、二つの言葉においてさえ、この変換は常に行われる。

 

論文や技術書にだって情緒はある。

情緒を、湿度の高いロマンチックや、抽象的な空気感のことだと勘違いしている限り、本当の情緒を見ることはできない。

「今夜の月は綺麗だね」は情緒ではない。

その言葉が相手に伝わる間に、歪み捻じれて全く違う意味に変換されていく、その『意味の舞い』こそが情緒なのだ。

 

 

独り言に情緒はない。

分かる分かる私も同じと言って終わるなら、それは月見て吠える獣の群れと何も変わらない。



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このエントリーは、

ルマガ 山本山本佳宏『二十一世紀の未読』

本日配信分の一部を抜粋したものです。

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