メールいただきましたのでたまにはご紹介を。
皆様感想メールいつもありがとうございます。
★ かおりさん
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やんもさん、今週もメルマガありがとうございました。
今日はもう届かないのかなぁと思ってたのでメールがきたとき「きたっっ!!」とテンションが上がりました!
やんもさんの文章は頭の良さが出てますね☆どんな育ちをしたらやんもさんができあがったのか。。
以前Ustreamで行ってた、小さな頃からたくさん本を読むとかなのでしょうか。
来週もメルマガ楽しみにしています☆
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あらかわいらしいメールですこと。ありがとうございます。
先週、バカがどうこう的な内容を書かせていただきまして、それについてのご感想かと思います。
僕は勉強が比較的良くできる子供でした、それを頭が良いというのであればそうなのだと思います。天才でもない限り、勉強できるかどうかは、わりと教育環境で決まりますし。
僕は勉強ができる人のことを頭が良いと申し上げるつもりは毛頭ございませんし、勉強ができないとか歴史を知らないとか漢字が読めないとか、そういった人のことをバカだと申し上げるつもりも、同様にございません。
勉強ができる、というのは、足が速いとか、手先が器用とか、絵が上手とか、食べるのが早いとか、鼻が高いとか、そういったものと全く同列の、人間の特徴のひとつに過ぎませんよね。勉強ができる人は、勉強ができることを生かす仕事をすればスムーズかもよ、程度の話で、むしろ個人的にはどっちでもいいことです。
かと言って、「だよな! 頭が良いっていうのは勉強ができるのとは関係ない、回転の速さとかセンスとかのことだよな!」と言われると、「全然違う」と答えて空気を悪くしてしまうのがいつものことなんですけどこれ僕が悪いんですかね?(笑)
僕は、呑み込みが遅い人や鈍い人、センス(笑) のない人を「バカ」だとは思いません。全然。
頭が良い、悪いというのは、世間では常に、相対的に語られます。
○○と比べて頭が良い、頭が悪い。
偏差値を目の敵にしたところで、結局は他人と比べる、平均と比べることでしか頭の良さを表現できない。自分のアタマの中を見ずに、常に相手のアタマを見ている、しかもアタマの中ではなく、アタマの外側を、見ている。
強さ、弱さの話と同様です。これについては何度かお話をしたことがございますのでお聞きになった方もいらっしゃるかもしれません。
「私は弱いから」「強くなりたい」というのは、職業柄もう何十万回聞いたか覚えていないぐらいのセリフです。これに対しての正解は持っていて、そのたびにお伝えしてきたのですが、それは彼らが望んでいる答えではなかったため、無視されるか、正反対の解釈をされてきました。彼らは正答を求めているわけではないのです。自分が欲している言葉を言って欲しいに過ぎない。
弱い、という言葉は、常に、絶対的な意味では使われません。
強いから弱いに至る、境目のないグラデーションの中で、常に相対的に、使われる。
何かと比較しないで存在することのできる『弱い』は、この世にはありません。
「私は弱い人間である」という言葉には、「○○と比較して」が必ずつきまといます。
つまり、自分の内面の話をしているようで、実はその視線は常に、他人に向けられているわけですよね。
明日から頑張ろうって決めたのに、できなかった。
他人を見る。あいつは上手くやっているっぽい。
ひどいこと言われて、落ち込んでいる。
他人を見る。あいつは楽しそうに過ごしている。
上手くやっているっぽいということは、強いのだ。私より。
楽しそうだということは、強いのだ。私より。
心の強さ弱さを、比較することはできません。
楽しそうだから強い、めげてなさそうだから強い、人をいじめているから強い。
目に触れる事柄への印象から、そう憶測しているにすぎません。
僕たちは、自分より人生を上手く過ごしているように見える人を指して強いと言い、上手くいかない自分を弱いと言う。
なぜか。自分のどこがどう弱いかなんて、分かるはずがないからです。そして同様に、相手の強さ弱さなど、分かることはできない。だから目に見える結果から憶測をします。
僕たちは人生が上手くいっている、楽しいと感じているときに、自分のことを『弱い』と嘆いたりはしない。
自分の強さ弱ささえ、結果オーライでしか判断しません。
もし『弱さ』を表現するならば、まさにそれこそが弱さなのだと思います。
常に他人と自分の、社会での評価を比較しないと不安である。それが弱さ。そして愚かしさ。
自分よりも良い評価を得ている者には嫉妬の目を向け、自分よりも低い評価の者には優越感を覚える。表立っては嫉妬となって攻撃し、裏では自虐という名の自慰となる。
自分のことを見てほしいのに、自分のことを特別だと思ってほしいのに、口からついて出る言葉は、他人の話ばかりであった。
「いいよね、あなたは強くて」
彼も自分と同じように、または自分よりも、その部分が弱いかもしれない。それは分からない。
彼も自分と同じように、または自分以上に、自らの弱さを嘆いているかもしれない。それは分からない。
「お前に何が分かんねん」という反応と、「その通り、あなたは私が思っている通りのことを言ってくれた」という反応は、同じものです。裏と表なだけ。意味は同じです。どちらも、『自分が満足したい』という意味しか示さない。
人間は歪な形で作られていてデコボコしていて、僕たちはそのデコボコを適宜、強いと呼んだり弱いと呼んだりする。適宜。強いと呼びたいときは強いと呼び、弱いと呼びたいときは弱いと呼ぶ。山を谷と呼び、谷を山と呼ぶ。
山がない谷などありません。谷がない山などありません。
あなたの山もあなたの谷も、誰かの谷に、誰かの山に触れるために、寄り添うためにある。
他人との幸せ比べでも、他人と似ているところ探しや共感できるところ探しでもありません。僕たちの『弱さ』は、必ず誰かを幸せにします。大切に育て、大切に観察してください。
他人と自分を比較する、ということと、他人のことを想う、ということは、全く別の物。むしろ正反対のものです。
僕の頭が良いのだとして、それが社会においてどのレベルの頭の良さなのかは分かりません。しかし、ずいぶんバカな、パッとしないランクであっても全く構いません。
僕の頭の良さは、他者との比較のために、他者に優位に立つために持っているものではありません。誰かひとりの役に立ち、誰かひとりを幸せにするために持っています。
僕の愚かさは、人に嫉妬したり、自虐や卑下をしたりするために持っているものではありません。誰かひとりの役に立ち、誰かひとりを幸せにするために持っています。
僕の愚かさは、誰かひとりの頭の良さを発揮してもらうために、いかに頭の良いのかを伝えるためにあります。ひとりです。ふたりではない。
「愚かさとか弱さが、人を幸せにするはずないだろ! いい加減にしろ!」
「そういう自分を甘やかす姿勢がゴミクズみたいな人間を生産し続けてるんだろ! いい加減にしろ!」
そうやって怒られるんでしょうねえ、きっと。
弱いとか強いとか何の意味もないから考えるのは全くの無駄である。
頭が良いとか悪いとか何の意味もないから考えるのは全くの無駄である。
と、言い捨ててしまうことももちろん可能ですが、それだといつもみたいにシカトされて終わってしまうので長々と書いてしまいました。失礼しました。そしてもちろん、これらの文章も、シカトして頂いて結構でございます。
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このエントリーは、
メルマガ 山本山本佳宏『二十一世紀の未読』
本日配信分の一部を抜粋したものです。
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