カシップシュッゴクッドンッビシャッ!!!!!!!!

 

僕みたいなもんは駅のホームで甘い缶コーヒーでも開けて飲もうとして後ろからぶつかられて全部Tシャツにこぼせばいいんですけどたまにはオシャレカフェに入ろうとしたっていいじゃないですか。何や言うたら座りたい、何や言うたら休憩したい年頃なんですから。人間なんて次の座るところを探して歩くだけの人生ですよ。キャンプ行ったって昼飯食い終わって次何やるかって晩飯の用意でしょ。飯と飯の間の時間をつぶすだけの人生ですよ。



 

僕の中学高校は修学旅行がありませんで、代わりに毎年1泊キャンプに行きました。いいじゃんそっちのほうが楽しそうじゃんと思った人に災いがあればいいなと思いますけど、出発前の持ち物検査でチューインガム見つかっただけで停学くらう上に山の中で監視されながらペグ打ってテント張って教師呼びに行って綺麗に出来ているという承認が得られなければせっかく作ったテントバラして一から立て直して、ようやく出来たと思ったら昼飯作って食って食い終わったら晩飯の食材を支給されて飯ごうすいさんで全然美味しくないカレー作って食って就寝時間過ぎても夜中までテントの周りを教師が人肉の味を知ったヒグマのごとく徘徊して寝れずにしゃべってるだけでテントから引きずり出されケツを鉄パイプで思いっきりどつき回されるわけですよ。気が狂ってますよね。ちなみにこのキャンプの間、ずっと学生帽かぶってますけどね。尋常小学校かと。清太さんかと。カルピスも冷えてるよなのかと。何が楽しいんですか。山ごと燃やすぞ。天城越え歌わすぞ。おい。こら。

 

そんな黒キャンプの話はどうでもいいんですけどたまにはオシャレカフェに入ろうとしたっていいじゃないですか。適当にオシャレそうな店構えの、女がアイスモカ片手にマックブック広げてカッコ良くニコニコ動画見てるようなお店を探して歩いておりました。おおーあの女めちゃくちゃ仕事してんな、タイピング鬼速やんカタカタカタカタ「wwwwwwwwwww」カフェで弾幕張るなよ。

そんな女も見つからずウロウロしていておっ、カフェあるやん。ここ良さそうやなーと思いながら近づくと看板が出ていて、そこにはオッサン二人が楽しそうに並んで会話を楽しんでいるような絵がオシャレタッチで描かれていました。

大声で地球市民に問いかけたい、誰がそんな看板のカフェに入りますかと。オッサン二人の絵ですよ。どういうシズルがあってその店に入るんですか。その絵が伝えるメッセージは、ホモ親父が二人仲良く経営しています、もしくはホモの方大歓迎、ということ以外に何があるんですか。白木屋のおっさんも一人や。ビアードパパも一人や。カーネルサンダースも一人で立っとるやろ。カールおじさんもカエルでガマンしとんねん。グリコのイラストも補助断って孤独に立っとんねん。BOSSのおっさんがパイプの代わりに違うもん咥えてたら嫌やろ。何でお前らだけ二人いちゃついていいことになってんのか。他のおっさんらに挨拶回りしたんか。

何度も申し上げますけど僕はホモの方ゲイの方への差別意識は全くございません、ただ多感な時期に数々のホモの痴漢に追い回された苦い経験からホモが嫌いだというだけなのでございます。

 

ガラス張りの窓から中を見ると、女性のみなさんが予想通り気だるそうにスマホを弄ったりパソコンを弄ったり手帳を弄ったりしている、どこにでもあるステキなオシャレカフェでございましたが、僕は入れませんでした。どうしても。あの看板気にならないんですかねえ。

 

 

全てのものにはツッコミどころが必ずあって、何かを否定しようとすればそれは必ず実現します。ツッコミどころがないものは存在しない。褒めるのは難しい。貶すのは簡単。だから僕のようなバカはすぐに貶すのです、褒める能力がないから。否定しなきゃいけないポイントがあるから否定するのではなくて、否定したいから否定する。否定したきゃすればいいとは思いますが、その前提を忘れないようにしたいです。

 

そのことを前提としつつも、何を意図しているのか良く分からない看板、ロゴ、デザイン、コピー、というのは世の中に確かにたくさんあります。

「何で赤やねん」とか「語呂悪すぎるやろ」とか「日本語下手くそか」とか「ちっさすぎるやろ」とか「もうちょっとカワイイ女使えよ」とか「現実でそんなことありえるわけない」とか「何でここだけちょっと和風にしたんや」とか、どうにだってつっこめますものね。

そんなこと言って仲間内でウヒウヒするのが楽しい時間かもしれませんし、そのツッコミとか「批評」がクリエイティブなのだとおっしゃる方も当然いらっしゃるでしょう。

 

アーカイブ。データ。保存。昔なら時間の裂け目に飲み込まれて時代と共に世の中から消え去って土に帰り、蒸発して空気となって僕らを包んでいたものが、今は全て記録され、保存され、消えずに腐らずにその場に、残される。僕たちがそれを望んだからそうなりました。望んでいないなら、そうはなっていない。誰もがそれを望み、それらは消え去ることなくどんどん積み重なってそびえ立つ。

その結果生まれたものは、もはや新しいものなど必要としない世界でした。一生かかっても、目の前のものを全て消費することさえできない。そんな環境で、何かを新しく生み出すモチベーションを湧き起こせと言われても、無理です。

僕たちはただひたすらに言う、「もっと食べやすくしろ」「もっと効率良くしろ」「もっとかいつまんで言ってくれ」「めんどくさい」。

目の前にそびえ立つものを、そのまんま消費することはもう、不可能です。頭を使わなくても、金を使わなくても、時間を使わなくてもいいことだけを、望む。新しいものをひとかじりしては、どんどん自分の見えないところに放り出す。僕らはすでに、そうやって生きています。

 

今日、一般の方々が言う「ツッコミ」と(お笑いにおける「ツッコミ」とは全く別のものです)、前述した今日のアーカイブ社会とはどこか通底するものがあるんじゃないかと常々思っていました。

何でもある。いくらでもある。保存され消えない。

巣の中に身動きが取れないほどエサを盛られた雛は、飛ぶことを覚えようとはしません。与えられるものへのリアクションだけで一生を終える。盛られたエサが美味いだの不味いだの、どれを食べてどれを捨てるだの、そんなことを言いながら、餓鬼のように腹を膨らせ死んで行く。それでいいのです。それだけやっていれば生きていけるんだから、それでいいのです。そもそも、自分で何かを生み出し発信したところで、永遠にそびえ立つ山の一部となるしかないのならば圧倒的に無視をされる可能性は高い。

「お前が作ったの、すでにこの世にあるよ」「パクりか?」「もう飽きた」

そんなことを言われるリスクを背負ってまでやる価値がない。やらなくても死なないから。

 

 

オッサンの看板の話をするつもりが、すごい勢いで無関係なお話をしてしまいました。大変失礼いたしました。何が言いたかったんですかね、すっかり忘れてしまいました。基本的に推敲無し修正無しで書き続けておりますとだいたいこうなります。申し訳ありません。メルマガはそういうことをしない場所と決めておりますので頻繁にこのような事態になりますことをお許しください。

 

でもオッサンのイラストは一人か三人以上がいいなあ。とはいえオッサンの看板のカフェには僕入りませんけど。男なんで。

とか言って僕もかつてはお付き合いで新宿二丁目のゲイバーに何度か行ったことがありました。あそこのカルチャーについて深く知っていることはあまりありませんが、いわゆるハードコアな、僕みたいなノンケが冷やかしで覗いては絶対にいけないお店もあれば、女が普通に男を連れて気軽に飲みに行けるようなソフトタッチ入門編なお店もあることは何となく分かっていて、僕が行ったのは当然、後者のお店でございましたけれども、僕は店のママに断続的にチンコ触られて、やめろやめろの2時間でした。いたたまれずトイレに立ちまして、トイレのドアを閉めようとしたところ、フック式のロックがブラブラに壊れているのに気づいて、やばいやばいマジで掘られると首をエクソシストのごとく真後ろに向けながら小用を足したのを思い出します。また関係ない話でした。



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このエントリーは、

ルマガ 山本山本佳宏『二十一世紀の未読』

本日配信分の一部を抜粋したものです。

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