■■ 踊り子マーニャ、苗場に行く ■■

 

例えばですよ、僕は偶然縁あって、ヒップホップと呼ばれるジャンルの音楽に10代から20代にかけていくらか親しんだんですが、例えばですよ、またも偶然縁あって、これこれこういうわけでヒップホップを聴いてましたと昔話をする機会もあるわけです。

本当はあまりしたくないのです公の場、特にネットとかでは。

 

「私、ヒップホップがイマイチ良くわかんないんだよねー」

「あれでしょ?ダヨネーダヨネー」

「やっぱ私の肌には合わない。」




 

個人の意見として主張する分には、僕もまあ別に。普段から好きなこと好き勝手に言えばいいじゃん僕もそうするからお互い様、と申し上げておりますとおり、別に何とも思わないんですが、一部の人たちは、そう主張しても袋叩きにあわないコミュニティに守られている、隠れているという安心感を担保した上で、「ね、みんなもそう思うよね私もモチロンそうなんだ」と言いながら遠目から石を投げていらっしゃいます。僕は風とロックという番組を長年やっておりますがゆえに、ロックファン、ロキノン系と呼ばれる方々からフォローを頂いていたりしております。

 

僕もいい年こいて大人げないですから、こういう、不必要な「嫌い/興味ない」の表明を飛ばしてくる人たちに近づいて行ってバーチャル胸倉を掴むような行為をしたくなる衝動も時には湧き起こります。そもそも、関係者でもなければ熱心なリスナーでもない僕がヒップホップ代表みたいなことになるのも申し訳ないし、全然嫌いでも何でもないロックファンの人たちに反発しなきゃいけないのも良く分かんない。

 

 

僕や他の人たちが何をどう言ったって、世の中は、自分の好きなものを語ることにさえ、嫌いなものを引き合いに出す。

○○が嫌いだ、分からない、興味がない、と表明しなければ気が済まない。異物を攻撃しないと自分の好きを守れないと思っている。これは震災を契機とした変化ではありません。これまでそうしてきた人はずーっとそうです。どんどんひどくなるだけ。

これを単独でやり続けられるんなら、それはそれで立派だと思います。すべてのものに噛みつき続けて死んで行くなら、天晴れな人生だと思う。でも嫌いなものの列挙や攻撃で自分を構成しようとする人は、当然不安とか心配とか寂しさとかをいつも抱えているわけだから、独りではそんなことできません。必ず、自分に賛同や共感を与えてくれる『仲間』を携えて、多数いる同志のうちの一面子として石を投げます。本来の好きと嫌いが、もうめちゃくちゃになってどこかに消え去っているような状態ですよね。イエズスにシバかれますよそんなことしてたら。


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このエントリーは、

ルマガ 山本山本佳宏『二十一世紀の未読』

本日配信分の一部を抜粋したものです。

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